ミャンマー(ビルマ)中部、マンダレー管区の中心都市。イラワディ川中流流路が西に折れる所、ミツゲー川との合流のやや上流の東岸にある。人口114万7400(2003推計)。かつての首都ヤンゴン(ラングーン)に次ぐ第二の都市で、中部ミャンマーの政治、経済、文化の中心地。絹織物、金銀宝飾細工、木彫の伝統工業があり、ビール醸造、製茶など近代的工業も立地する。市の西部、シュウェタ運河に近いゼージョ・マーケットには、遠くからシャン人やカチン人も集まってきて、取引が盛んである。大学、博物館など文教施設も整っている。また鉄道、道路、河川交通、航空路のいずれの交通網においても中部ミャンマーの中心で、ヤンゴンとの連絡もよい。1857年、コンバウン朝のミンドン王によって建設が開始され、1860~1885年の間、同王朝の最後の首都であった。周囲8キロメートルの正方形の王城があったが、第二次世界大戦中に大きな破壊を受け、城壁と外堀だけが残っている。市街地は規則正しい碁盤目状にくぎられ、北のマンダレー丘陵からの展望はみごとである。マハームニ・パゴダ、クトード・パゴダ、シュウェナンドー僧院など史跡や名所が多い。
ビルマのコンバウン王朝後期の首都で、ミンドン王(在位1853~1878)の詔(みことのり)によって、1857年2月王城の建設を開始し、1858年7月に竣工(しゅんこう)。ついで市街地の建設が1859年5月に着手され、1874年6月に完成した。1860年から上ビルマの政治、経済、文化の中心となった。王の殖産興業策により王城内に貨幣鋳造工場、付近には綿織物工場、ガラス工場なども建設された。しかし、ティーボー王(在位1878~1885)の1885年11月28日、イギリス軍によって占領され、以後首都としての機能は失われた。イギリス領下、街は整備され、堀割内には兵舎や司令部が改築され、ダッファリン砦(とりで)Fort Dufferinとよばれるようになった。王城そのものは、1945年日本軍による戦禍のなかで焼失した。