日本大百科全書(ニッポニカ)

築地市場
つきじしじょう

1935年(昭和10)2月、東京市(当時)が開設する中央卸売市場の一つとして中央区築地地区に開業されて以来、2018年(平成30)10月に移転再整備のため閉場(業務停止)となるまで83年にわたり生鮮食料品における首都の基幹的流通を担ってきた卸売機関である。敷地面積は23万平方メートルあり名実ともに水産物取扱いが中心であった(卸・仲卸の売場面積:3万5100平方メートル)が、青果物も扱っていた(同:1万6500平方メートル)。
 全国の都市に開設される中央卸売市場のなかでも一貫して最大の基幹市場であり続けた(全国取扱量の20%以上を占める)だけではなく、とくに日本橋魚市場からの長い歴史を受け継いだ水産物部においては、その取扱規模、豊富な品ぞろえ、食材としての質の高さや評価機能(取扱従事者の目利き・ノウハウ)等において、世界においても最大級の取扱量を誇り、卓越した水産卸売市場であると認知されていた。いわゆる水産物における「築地(TSUKIJI)ブランド」を発信する魅力的拠点とみなされ、観光スポットとしても注目を集める存在となった。築地市場には全国の産地のみならず、世界各地からも食材が供給され、2017年における水産物取扱いは市場の品目小分類でみても約460品目(青果物部では約170品目)に及んだ。
 築地市場の淵源(えんげん)として上に述べた日本橋魚市場は、近世・江戸時代に庶民の魚河岸(うおがし)として形成され、近代・明治期に入ってさらに集合市場として増加する首都の食料消費に対応する役割を果たしてきたが、1923年(大正12)9月に発生した関東大震災における復興問題や折から公布された中央卸売市場法(1923年3月)による大都市卸売市場整備計画のもとで、当時の「京橋大根河岸青物市場」をも併合して、新たに築地に移転・再建された。仮設・仮営業や調整の時期を経て「東京市中央卸売市場」(当時)としての本格業務開始は1935年2月であった(神田と江東の青果市場もほぼ同時期の開業)。同時に汐留(しおどめ)駅の引込み線として国鉄の東京市場駅も開業した(東京市場駅は1984年(昭和59)まで続いた)。水産物部は淡水、塩干(えんかん)、鮮魚の取扱いや分場業務を順次拡充した。しかし、昭和戦前期、および戦後復興期は戦時経済や食料統制の時代に入り、築地市場流通は十分な開花をみることはできなかった。
 築地市場において卸売市場としての発展がみられるのは戦後1950年以降、とくに日本の高度経済成長期以降である。急速な需要増加を背景に冷蔵庫、活魚施設や低温売場等の整備拡充、鮮魚専用列車の運行(西日本、三陸、山陰等と築地間)、駐車スペースの拡充、電算処理業務開始、おさかな資料館や厚生施設整備等、各種インフラと機械化・合理化の整備が大いに進捗(しんちょく)する。1971年に流通事情の変化を背景とする卸売市場法制定(中央卸売市場法の全面改正)があったが、1980年代後半に取扱いのピークを迎え、水産物年間取扱高は約80万トン/7000億円、1日当り約3000トン/26億円、買出人等の市場入場者は1日4万人を超えるという活況を呈するマンモス市場へと成長した(卸売業者は7社(鮮魚関係4社、塩干関係3社)、仲卸業者はピーク時で1000名を凌駕(りょうが)、売買参加者は380名余)。
 しかしながら、他方で施設の老朽化や狭隘(きょうあい)化が進行し、流通条件や物流事情の変化もあって取扱高の低迷等を余儀なくされ、仲卸業者の休廃業も続くようになった。それらへの対応において、当該市場流通は1980年代から活性化方策や再編整備の問題が検討されたが、さまざまな課題提起や調整を経て、ついに2018年10月に豊洲(とよす)市場への移転と本市場の閉場の運びとなった。なお、築地市場に隣接している、いわゆる「築地場外市場」には小売店や外食店等(約400店舗)が軒を並べ、市民、観光客等に人気のスポットとして発展してきたが、事業者の多くは基本的に繁華街に近い築地地区での営業を継続している。
[廣吉勝治]2019年6月18日