15世紀前半、イギリスのランカスター王家が仕掛けてきた戦争(後期百年戦争)の最中、神の命令を受けたと称して現れ、フランスのバロア王家を支援したロレーヌ出身の女。2年後、異端として殺された。
今日われわれのみるジャンヌ・ダルクは、国民国家意識の高揚した19世紀のフランス人のみたジャンヌ像であり、国家主義的、王党派的見方に貫かれている。ジャンヌ関係の根本史料は、ルーアンの宗教裁判記録を第一とするが、19世紀中葉の活字本には多々不備があり、1960年代に入り、新たに校訂本の刊行が開始された。ジャンヌ研究は、いまようやくにして始まったところである。
[堀越孝一]
ロレーヌの生村ドンレミ(現在ボージュ県ドンレミ・ラ・ピュセル村)を出て、1429年2月初め、王太子シャルルが本陣を置くシノン城市に姿を現すまでのジャンヌの動静には、不明な点が多い。近在の城市ボークールールの守備隊長ロベールは、パリの王政府からシャンパーニュのショーモン代官職を預かる叔父の代理を務め、ドンレミ村の裁判領主である。ジャンヌの父ジャコは、村の代訴人としてロベールの法廷に出たこともある村の有力者である。娘のジャンヌは、ロベールを頼った。ロベールは、形式上はあくまで王太子シャルルと敵対しているパリの王政府(イギリスとフランスの王を称する幼王ヘンリー6世の摂政ベドフォードの政府)の役人でありながら、シャルルに味方している。ロベールがジャンヌにつけてやった数人の護衛のうちには、王太子の厩舎(きゅうしゃ)掛の職名をもつものもいた。いずれにせよ、王太子が事前にジャンヌに関する情報を入手していたことは確かである。
戦局の焦点は、1429年のロアール川中流のオルレアン市攻防にあった。ここを落とせば、イギリス軍はノルマンディーとギュイエンヌという二つの占領地域をつなぐことができる。王太子としては、ここで敗北すればロアール川流域からさらに南に撤退しなければならない。そういう存亡の危機に立たされた王太子のもとに、王太子を救えという神の命令を受けたと称する女が現れた。王太子は、この女ジャンヌの志の誠実さを認め、オルレアンの守備隊に参加させた。信仰の熱情にあふれ、慣行にとらわれない戦闘指揮をみせるジャンヌは、兵士たちの心をとらえた。ジャンヌの率いる槍(やり)小隊は、日が暮れても戦闘をやめず、ついにイギリス軍が築いた砦(とりで)の一つを落とした。これが戦況を大きく変えた。同年5月上旬、イギリス軍はオルレアンから撤退した。オルレアンの戦いののち、ジャンヌはランスでのシャルル(7世)の戴冠(たいかん)式に列席し、北フランス諸都市を歴訪する「王の巡行」に、バロア王家の「神の証人」として、華麗な衣装を身にまとって同行した。ジャンヌの生涯の、これが華であった。
[堀越孝一]
翌1430年5月、ジャンヌは北フランスのコンピエーニュ郊外で、ブルゴーニュ方の軍勢に捕らえられた。身代金(みのしろきん)はイギリス王が支払い、ジャンヌはノルマンディーのルーアン城に留置された。シャルルは沈黙を守っていた。パリ大学神学部は、ジャンヌに異端の嫌疑をかけ、フランス王国宗教裁判官による宗教裁判を要求し、イギリス王家側もこれに同意し、法廷に身柄を引き渡した。裁判は、31年2月21日を初日として14回の審理を重ねた。教会の聖職者の仲介を経ず、直接神的存在に接触したと主張すること、異端嫌疑の根拠はここにあった。「地上の教会」の組織原理が、一少女の純な信仰によって試されている。宗教裁判官の審問は、ジャンヌの主張が、日ごろ目にする神的存在の画像に触発された心理的錯覚に出ることを論証することに的を絞っている。もし、これを少女が認めれば、少女の罪は聖像崇敬という信仰の迷いにほかならず、異端の嫌疑は消える。法廷は、ジャンヌの魂と肉体を救おうと試みたのである。少女の単純で純粋な信心がこれを拒んだ。同年5月28日朝、ジャンヌはルーアンの広場で異端を宣告されてイギリス王家のルーアン代官にその身柄をゆだねられ、代官は慣行どおり、異端女を火刑に処した。このルーアンの審決を、ローマ教皇庁はいまだ取り消していない。それでいて、1920年、教皇庁はジャンヌを聖女に列した。かくして、いま、ジャンヌ・ダルクは異端にして聖女である。
[堀越孝一]