中国唐代(7~10世紀初)の三彩陶の総称。盛唐三彩と中・晩唐三彩とに大別される。三彩とは、一つの器に鉛を媒溶剤とした色釉(いろゆう)を施して低火度で焼成した軟陶であり、褐釉と緑釉をかけ合わせた始源的な三彩はすでに漢代に先例をみるが、素地(きじ)に純白色の粘土を選んだところに唐三彩の特色がある。北斉(ほくせい)時代(550~577)の白釉緑彩陶を祖法として、盛唐の則天武后の武周革命(690~705)の時期に一挙に成熟した。厚葬の風習が盛行した唐代には、貴紳の墓に副葬するための多くの明器(めいき)がつくられているが、696年の契苾明(けいひつめい)墓(陝西(せんせい)省咸陽(かんよう)市)から出土した三彩馬、三彩駱駄(らくだ)などは、盛唐三彩の最初期の資料でありながら92センチメートルの像高をもち、豊かな彫塑力に支えられた様式美を示し、釉法もすでに完熟の域に達している。盛唐の三彩は、透明釉地に緑釉(銅呈色)、褐釉(鉄呈色)、藍(あい)釉(コバルト呈色)を垂らし込む単純なものから、蝋(ろう)抜き技法で大小の鹿(か)の子斑(こはん)を表現したり、緑釉や褐釉を濃く呈色させた上に透明釉をたっぷりかけて暈(ぼか)しや滲(にじ)み染めする釉法、あるいは、あらかじめスタンプで文様を表しておき、文様にあわせて三彩の色釉を賦彩する一種の色絵法も編み出した。これにより、それまで比較的じみな装飾法しかなかった陶磁器に絢爛(けんらん)たる装飾美の世界が開かれ、陶磁史にとっては空前の一大盛事となった。
貴族文化を象徴する盛唐の三彩は、安史の乱(755~763)によって終止符が打たれ、それ以後の三彩陶は大きく性格を変え、おもに食器を中心とする日常の器皿に精緻(せいち)な技法が駆使され、一部は海外へも輸出されるようになった。これが中・晩唐の三彩であり、やがて宋(そう)三彩、遼(りょう)三彩、元三彩、明(みん)三彩、法花(フアーホワ)、交趾(こうち)焼へと受け継がれるが、同時に外国の製陶にも大きな影響を与え、盛唐の三彩は日本に奈良三彩、新羅(しらぎ)国に新羅三彩、渤海(ぼっかい)国に渤海三彩を生む機縁をつくり、晩唐三彩はイスラム圏にイスラム三彩を誕生させている。わが国ではまた桃山時代に京都の長次郎が明後期の交趾焼を手本として三彩を焼いて楽(らく)焼の祖となっており、江戸後期にはやはり交趾焼の作風を受けて全国各地に三彩が流行した。