日本大百科全書(ニッポニカ)

緒方貞子
おがたさだこ
[1927―2019]

国際政治学者。第8代国連難民高等弁務官(UNHCR。1991~2000年)。父は中村豊一(なかむらとよいち)(外交官)、母恒子の長女として東京に生まれる。母方祖父は芳沢謙吉(よしざわけんきち)(外務大臣)、曽祖父は犬養毅(いぬかいつよし)(首相)。子供時代を11歳まで父の任地アメリカ、中国、香港(ホンコン)で過ごし、帰国後、聖心女子大学の第一期生(30名)として1951年(昭和26)英文科を卒業した。同大学でテニス・サークルを創設し、ラケットは生涯離さなかった。同窓の美智子皇后(のち上皇后)とのテニスを通じた交流はよく知られる。また、学長のマザー・ブリットElizabeth Britt(1897―1967)には受洗を含め人格形成において強い影響を受けた。1953年ジョージタウン大学大学院修士課程を修了後、東京大学法学部・岡義武ゼミの研究生として政治史などを学ぶ。ふたたびカリフォルニア大学バークレー校(博士課程)に留学、勃興(ぼっこう)期の国際政治理論、とくにR・スナイダーRichard C. Snyder(1916―1976)らの政策決定過程論などに強い刺激を受けた。帰国後、一次資料(片倉衷(かたくらただし)(1898―1991)元関東軍参謀の日誌、外務省の日中戦争関連電信記録など)を読み込み、1962年博士論文“Defiance in Manchuria: The Making of Japanese Foreign Policy,1931-1932”を提出、学位を取得した(英語版1964年刊、日本語版『満州事変と政策形成の過程』1966年刊)。緒方らの世代が共有する「なぜ日本はあの無謀な戦争に踏み込んだか」という問題意識にたち、つねに日本のあり方を案じた彼女の原点をなす。この間、1960年に緒方四十郎(1927―2014。元日銀理事。緒方竹虎の三男)と結婚。1974年国際基督(キリスト)教大学准教授、1980年上智大学教授(~1990年度)として教鞭(きょうべん)をとるかたわら、1968、1970、1975年に国連日本政府代表(顧問)、1976~1978年に日本政府代表部公使、1978~1979年には同特命全権公使として国連児童基金(UNICEF)執行理事会議長を務めた。その後も国連人権委員会の日本政府代表(1982~1985)、国際人道問題独立委員会委員(1983~1987)、国連人権委員会ビルマ人権状況専門官(1990)など、日本の国連外交の一翼を担った。天性ともいえる率直・簡潔な物言い、説得力、機敏な議論集約力、揺らぐことのない道義的な考え方が注目され、1991年推薦を受けて国連難民高等弁務官に就任した。冷戦直後、開発途上国には従来の国際法も外交も通用しない内戦が頻発したが国際社会は関与を忌避し、その言い訳のようにUNHCRに出動を要請した。緒方は、イラクのクルド人、旧ユーゴスラビア、とくにボスニア・ヘルツェゴビナのイスラム教徒、ルワンダのフツ族など内戦が生み出す難民の保護に現場主義を掲げて傑出したリーダーシップを発揮し、世界が瞠目(どうもく)した。難民条約の定義を満たさない国内避難民への保護・支援の拡大や、支援物資輸送における北大西洋条約機構(NATO)軍との協力など、むずかしい問題において、緒方が下した人間の命を最優先するという決断が、その後のUNHCRの新しい行動指針となった。また、緒方が提唱した苦境にある人々の自立を継ぎ目なく支援する「人間の安全保障」概念は、国連の新しい理念として広まった。UNHCR退任後、アフガニスタン復興支援国際会議共同議長として復興プログラムのとりまとめ、45億ドルもの基金集めに力を発揮した。2003年(平成15)独立行政法人国際協力機構(JICA(ジャイカ))理事長に就任(~2012年)、UNHCR時代の経験から現場主義、「人間の安全保障」という視点、効率性とスピードなどを強調し、日本の開発事業の改革・再編にあたった。1993年のイタリア「金の鳩(はと)」平和賞に始まり、1996年ユネスコ平和賞など、各国、国際機関から25以上の賞・勲章を授与された。2001年(平成13)文化功労者、2003年に文化勲章を受章した。

[納家政嗣]2020年8月20日

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