中国、東晋(とうしん)時代の能書家。中国、日本において書聖として尊重される。東晋の建国に功労のあった王導(おうどう)の従弟(いとこ)王曠(おうこう)の子。字(あざな)は逸少(いっしょう)。琅邪(ろうや)臨沂(りんぎ)(山東省臨沂県)の人。秘書郎(宮中の典籍をつかさどる)をはじめとし、会稽(かいけい)王友、臨川大守、江州刺史(しし)、護軍将軍を歴任した。名門の出身であったが、中央政府の地位を求めず、351年(永和7)には右軍(ゆうぐん)将軍、会稽内史に任じられ、会稽郡山陰県(浙江(せっこう)省紹興(しょうこう)府)に赴任した。この官名により王右軍と称される。また353年3月、山陰県の名勝蘭亭(らんてい)に時の名士謝安、孫綽(そんしゃく)らと会合し、詩を賦したことは有名で、曲水(きょくすい)の宴として後世に伝わる。4年間の在任ののち辞任して、以後は自然に心を寄せ隠逸生活を送った。
書は幼少よりよくし、衞夫人(えいふじん)や叔父王廙(おうよく)から筆法を授けられ、さらに漢魏(かんぎ)の遺品をも学んだ。学書が進むにしたがい、しだいに羲之の能書としての名声は高まっていった。また、彼が、漢代に萌芽(ほうが)した楷(かい)・行(ぎょう)・草(そう)の実用書体を芸術的な書体にまで完成させたことは特筆に値する。彼の書は在世中より尊重され、南朝の宋(そう)・斉(せい)・梁(りょう)の各王朝においても王侯貴族により愛好、絶賛された。さらに、隋(ずい)を経て唐代には能書帝太宗が羲之を尊重し、その書を広く収集したこともあって、羲之書法は大いに盛行した。以後、後世の書に果たした役割および影響は大きいものがある。
日本においては、『扶桑略記(ふそうりゃっき)』の754年(天平勝宝6)正月16日の記事が、鑑真(がんじん)の渡来とともに羲之書法の伝来を伝える。その後も羲之書法の伝来は多く、平安時代の三筆、三蹟(さんせき)によって完成された和様書道にも大きな影響を与えた。また、近世になって盛んに渡来した集帖(しゅうじょう)などにより、さらに羲之書法は書の規範としての地位を高めていった。
今日、羲之の真跡は伝存しないが、双鉤填墨(そうこうてんぼく)(書写された文字の上に薄紙を置いてその輪郭をとり、その中を墨で塗抹する模写法)による『喪乱帖(そうらんじょう)』(宮内庁)や『孔侍中帖(こうじちゅうじょう)』(前田育徳会)、さらに『蘭亭序(らんていじょ)』『十七帖』『集王聖教序(しょうぎょうのじょ)』などの拓本が伝えられ、これらによって羲之書法とその尊重ぶりをうかがうことができる。