横浜市にある国際戦略港湾で、東日本の代表的国際貿易港。貿易額は港湾のなかでは名古屋、東京に次いで全国第3位であるが、空港も含めると第4位となっている(2003)。港域は、もとは鶴見川河口から本牧十二天(ほんもくじゅうにてん)の鼻先までの間であったが、第二次世界大戦後は本牧地先、根岸湾、金沢地先などの埋立て事業によって拡張された。港の管理は1951年(昭和26)に国から横浜市に移管されている。
横浜港は1859年(安政6)6月2日に開港された。当時の港は洲干島(すかんじま)(山手丘陵から続く砂嘴(さし))の北西端の横浜村に設けられた。幕府は、村の中央に運上所(うんじょうしょ)、北の海岸に波止場2か所をつくり、東波止場を外国貿易用、西波止場を内国用とした。翌1860年(万延1)には輸出額320万円、輸入額300万円となり、それらの全国比は輸出86%、輸入71%で、日本の貿易に独占的地位を占めていた。1869年(明治2)に東京へ都が移されると、横浜港はその外港とされ、1880年代からの築港工事はほとんど国費で進められ、大桟橋(客船専用)、新港埠頭(ふとう)(外国貿易用)、高島埠頭(内国用)などが完成し、鶴見・大黒(だいこく)町などに民間埠頭が建設された。これらの諸施設は1923年(大正12)の関東大震災で全壊し、その復興後十数年して第二次世界大戦の戦災によって、ふたたび大被害を受けた。
第二次世界大戦後は、戦災を免れた港湾施設の大半が占領軍であるアメリカ軍に接収されて、長い間使用できなかった。1952年(昭和27)に接収は解除され、修築・拡張と臨海工業地帯の造成事業が1950年代から1990年代にかけて行われ、現在は商港であるとともに、工業港としての性格ももっている。そして鶴見、大黒、本牧の諸埠頭や根岸湾岸、金沢地先などには工業用地が造成され、石油精製、製鉄、食料品、機械などの大工場や市内中心部の中小工場が進出・移転し、それぞれの専用岸壁や桟橋が設けられた。また、上屋(うわや)・倉庫などの陸上設備の整備、航路・泊地(はくち)の浚渫(しゅんせつ)も行われている。本牧埠頭にはコンテナ専用岸壁がある(1968年フルコンテナ船の第一船入港)。また港湾に密接する陸上交通も整備されている。1989年(平成1)に開通した横浜ベイブリッジは、首都高速道路と直結されて渋滞解消に貢献するだけでなく、みなとみらい21(MM21)地区(1983年着工、1991年桟橋完成)のシンボルである横浜ランドマークタワー(1993年完成)とともに「みなと横浜」の新名所にもなっている。2004年には横浜高速鉄道みなとみらい21線(横浜―元町・中華街)が開通した。
横浜港の貿易は、開港当初はほかの国内諸港と同じく、外国商社(商館)主導型で、輸出入ともすべてそれらの手を通じてなされる商館貿易で行われていた。これに対して20年間にもわたった日本商社の是正運動と政府の外交交渉によって、明治中期に差別条項が撤廃された。輸出品は、当初は生糸(70%)と茶(20%)で占められ、この傾向は第二次世界大戦前まで続いた。戦後は、金属機械工業品(鉄鋼、自動車、電気機器)、化学工業品、雑工業品が主となり、後背地の産業に結び付いている。現在の輸出品は、自動車およびその部品、産業機械、染料等化学工業品、鋼材などが上位を占めている。輸入品も変遷し、大正期の原料品(綿花、羊毛)、素材(鉄鋼その他)は、戦後は原料品(石油)、食料品(麦類、雑穀、豆)、加工用機械と変化していった。現在は、これらに非鉄金属、電気機器、衣類などが加わっている。
おもな貿易相手国は、中国、アメリカ、オーストラリア、アジアNIES(ニーズ)など。2003年(平成15)の貿易額は、輸出が6兆0920億円、輸入が2兆8638億円で、日本経済の不況を反映して減少傾向にある。
外国航路の利用客は、航空機利用の発展に伴い減少傾向をたどり、年数便の観光客船にとどまっている。