新潟県佐渡島、佐渡市各地にある金銀山の総称。古く砂金採取が行われたころ(『今昔(こんじゃく)物語集』)佐渡金山の中心は佐渡の南部三川(みかわ)砂金山(旧、佐渡郡真野(まの)町域)にあった。やがて16世紀なかば、博多(はかた)の商人神谷寿禎(かみやじゅてい)によって灰吹(はいふき)精錬がもたらされると、鶴子(つるし)銀山(旧、佐渡郡佐和田(さわた)町域)が脚光を浴びることになった。そして、慶長(けいちょう)期(1596~1615)には相川(あいかわ)金銀山(旧、佐渡郡相川町域)の発見によって佐渡は日本最大級の金銀山となり、江戸幕府の財政に大きく貢献することとなった。それまで十数軒の村里であった羽田(はねだ)村から相川町が独立したのは1600年(慶長5)のことであるが、1603年佐渡代官となった大久保長安(ながやす)の時代に町並みは整備され、陣屋も相川に移された。元和(げんな)期(1615~1624)には米の消費高年4万5000石、推定人口3万人余の鉱山町となり、銀運上額は年8000貫目を数え、単年度としては世界産額の20%を記録するに至った。しかし寛永(かんえい)(1624~1644)の中期になりしだいに深敷(ふかしき)(坑道が深くなる)となり経費がかさみ、加うるに銀価格の下落もあって経営不振となる鉱区が多かった。元禄(げんろく)時代(1688~1704)奉行(ぶぎょう)荻原重秀(おぎわらしげひで)は海岸から大水貫(みずぬき)を掘って費用節減と増産を図った。いまに残る南沢疎水は、鉱山の歴史が湧水(ゆうすい)との闘いであったことを教える。地下水の汲上(くみあ)げにあたるのが水替人足(みずがえにんそく)であり、初めは村々に割り当てたが、1778年(安永7)以降、江戸・大坂などの無宿者を佐渡送りにして水替えに従事させた。
幕府が滅んだのち佐渡鉱山は新政府の御料局の経営となるが、はかばかしい成果をあげることはなかった。やがて1885年(明治18)佐渡鉱山局長大島高任(たかとう)による西洋技術の導入によって大発展したが、1896年には三菱(みつびし)に払い下げられた。太平洋戦争中は銅の採掘を行ったが、1952年(昭和27)三菱は鉱山の大縮小に踏み切り、1976年には佐渡鉱山株式会社として独立。ささやかな経営を続けたのち、1989年(平成1)に閉山した。