戦国期~江戸期の城。名古屋市中区本丸(ほんまる)にあり、天守閣の鯱鉾(しゃちほこ)が青銅の鋳物に薄い金板を張っていることから金鯱(きんこ)城ともいう。城は名古屋台地の北西隅、台地が北方の低湿地へ突き出た丘陵の突端を利用して築かれた平城(ひらじろ)である。名古屋は古くは那古屋と書かれ、戦国期の城は那古屋城である。位置は江戸期名古屋城の二の丸一帯とされている。戦国期那古屋城を築いたのは駿河(するが)の戦国大名今川氏親(うじちか)で、大永(たいえい)年間(1521~1528)に末子氏豊(うじとよ)(生没年不詳)を置いたのが初めといわれる。氏豊は織田信秀(のぶひで)に城を奪われ、信秀は生後まもない吉法師(きちぼうし)(信長)をこの城に置いていたが、1555年(弘治1)信長が城を清洲(きよす)(西春日井(かすがい)郡)に移すとともに廃城となった。のち1607年(慶長12)徳川家康の9子義直(よしなお)が清洲城に入ったが、清洲城が城地狭く、また水害のおそれがあったことから新たに城を築くことになり、選ばれたのが戦国期那古屋城の場所であった。1610年家康は豊臣(とよとみ)恩顧の大名20人に名古屋城の手伝い普請(ふしん)を命じた。城は西と北の二面に高い石垣を築いて堀を巡らし、東と南には深い空堀を設け、内側に高い土塁を築き、入口に桝(ます)形をつくり楼門が設けられている。本丸、二の丸、三の丸、西の丸、御深井丸に分かれ、本丸にはさらに深い空堀を巡らせている。天守閣は1612年にできあがったが、二の丸御殿までを含めての完成ということになると、大坂冬の陣・夏の陣を挟んで1620年(元和6)ころまで大掛りな工事が進められたことになる。名古屋城がこのように豪壮なのは、家康の子の居城であるというだけでなく、大坂方への備えとして築かれたことを示している。尾張(おわり)徳川家は61万石余を領し、徳川御三家の一つとして義直から16代義宜(よしのり)(1858―1875)まで続いて明治維新に至った。
本丸西北の天守台に築かれた天守閣は五層五重、穴蔵一重で、小堀政一(まさかず)(遠州)を作事奉行(さくじぶぎょう)、中井正清(まさきよ)(1565―1619)を大工棟梁(だいくとうりょう)とし、さらに大工頭に岡部又右衛門(またえもん)、天守台石垣は加藤清正(きよまさ)という当代一流の築城家の手になるものであった。この大天守と小天守の連結式天守閣は、内部の144面に及ぶ障壁画とともに1945年(昭和20)の空襲によって焼失してしまった。焼失を免れたのは西南隅櫓(すみやぐら)、東南隅櫓、西北隅櫓(清須櫓)、表二の門、東鉄(くろがね)門、西鉄門のみである。
現在の天守閣は1959年(昭和34)鉄筋コンクリートにより復原されたものである。
名古屋市により2009年(平成21)から行われていた本丸御殿の復元工事が2018年6月に完了し、一般公開を開始した。木造の建物ばかりでなく、内部の障壁画、彫刻欄間(らんま)、飾り金具なども忠実に復元された。また、現天守閣の解体、木造での復元は2022年12月の完成を目ざしている。