江戸前期に来朝した中国明(みん)代の禅僧。黄檗(おうばく)宗の祖。法諱(ほうき)は隆琦(りゅうき)。諡号(しごう)は普照(ふしょう)国師など。福建省の生まれ。幼時より行方不明だった父を捜して、21歳のとき旅に出、有名な観音霊場、舟山(しゅうざん)列島の普陀山(ふださん)に至って出家を志した。29歳のとき、福建省黄檗山万福寺(まんぷくじ)(古黄檗)にて剃髪(ていはつ)。勧進(かんじん)の旅をし、また諸寺を訪れ『法華経(ほけきょう)』『楞厳経(りょうごんきょう)』などの講説を聴聞。33歳より臨済(りんざい)宗の密雲円悟(みつうんえんご)(1566―1642)に就いて参禅した。42、43歳のころ密雲下の兄弟子費隠通容(ひいんつうよう)(1593―1661)に印可されて嗣法(しほう)し、1637年(崇禎10)46歳で古黄檗の住持に請(しょう)ぜられた。ここで一切蔵経(いっさいぞうきょう)を閲読、また1555年倭寇(わこう)の変で焼けて以来宿願であった伽藍(がらん)大復興を完成し、さらに隠元自身の語録も出版している。古黄檗を退院して2年後に再住、この間多数の修行僧を指導した。しかし退院中の1644年祖国の明は事実上滅びた。
1652年(承応1)より長崎・興福寺(こうふくじ)の逸然性融(いつねんしょうゆう)(1601―1668。明僧)らの懇請があり、隠元は3年間の約束でこれに応じ、1654年に一行30名が鄭成功(ていせいこう)の仕立てた船で来日、長崎に着いた。興福寺、福済寺(ふくさいじ)、崇福寺(そうふくじ)の唐三か寺は、幕府の鎖国政策で長崎に集まった華僑(かきょう)の檀那寺(だんなでら)であり、隠元はただちに興福寺、ついで崇福寺に住した。この壮挙は日本の仏教界、とくに禅僧たちに大きな反響をよんだ。龍渓性潜(りゅうけいしょうせん)(1602―1670)らは隠元を京都・妙心寺に迎えようと奔走したが、愚堂東寔(ぐどうとうしょく)(1577―1661)らの反対も強く、結局、摂津(大阪府)普門寺に迎えられた。1658年(万治1)江戸に赴き、将軍徳川家綱(とくがわいえつな)に謁見、翌1659年酒井忠勝(さかいただかつ)らの勧めで永住を決意、幕府から山城(やましろ)(京都府)宇治に寺地を与えられ、1661年(寛文1)一派本山としての黄檗山万福寺(新黄檗)を開創した。3年後に隠退し、寛文(かんぶん)13年4月3日、82歳で示寂。隠元は、念仏と密教的要素を取り込んだ明末の禅風をもたらし、万福寺は、行事、建築、明代の仏師笵道生(はんどうせい)(1637―1670)の仏像など万事が明朝風で、以後の歴住も中国僧が続いた。隠元の書は、幕閣・諸大名などに珍重され、膨大な語録・詩偈集(しげしゅう)は、その精力的な活動を伝えている。
2017年1月19日
江戸時代の書を代表する唐様(からよう)(中国書法から強い影響を受けた書風、および流派)の推進に、先駆的な役割を果たしたのが、隠元ら黄檗の僧たちの書であった。開祖の隠元や、後世に「黄檗の三筆」と並び称された木庵性瑫(もくあんしょうとう)、即非如一(そくひにょいち)の雄渾(ゆうこん)な書は、宗派の広がりとともに全国的に伝えられた。隠元は書を、宋(そう)代の蔡襄(さいじょう)に学んだといわれ、また師の費隠通容の影響もみられる。なにものにもとらわれない、のびのびとした書は、隠元の不断の修禅によって生み出されたものであり、その高徳と相まって、世人に広く親しまれている。
2017年1月19日