硯を中心に水滴、筆、墨、小刀、錐(きり)など筆記に必要な道具類を収めた箱。普通は木製漆(うるし)塗だが、木地のまま仕立てたものもある。古くから貴族、武家など上層階級の調度として発達し、文台や料紙箱とそろいの意匠で豪華に飾られた作品も多い。
日本で筆墨による書写が盛行するようになるのは奈良時代以降のことだが、当時の硯や筆などの整理、収納のようすについての詳細は不明。今日知られている限りでは、硯箱の文献上の初見は、10世紀初頭成立の『延喜式(えんぎしき)』で、その太政官(だいじょうかん)式に「丹硯箱」がみえる。おそらく朱か弁柄(べんがら)で塗って装飾したものであろう。
その後、硯箱が調度のなかで主要な位置を占めるとともに、その器物としての性格も趣味的、装飾的な色彩の濃いものになっていく。他の道具類とそろいの桐竹文蒔絵(きりたけもんまきえ)で飾られた硯箱(『長秋記』元永(げんえい)2年〈1119〉10月21日条)、藤原隆能(たかよし)の下絵になる海賦蓬莱(かいふほうらい)の文様が描かれた蒔絵硯箱(『台記別記』久安(きゅうあん)3年〈1147〉3月28日条)、そして雲鳥紋の蒔絵による重(かさね)硯箱(枕草子(まくらのそうし))など、いくつかの史料にみえる記載は、平安期硯箱の華麗な姿をしのばせるものである。また、硯箱の基本的な構造が定まったのも、この平安時代なかば以降のことと考えられる。『源氏物語絵巻』夕霧の一場面(国宝、五島美術館)には、身の内に細木を組んだ架台を設け、その上に硯や筆、小刀などを置いた大型の硯箱が描かれているが、これを『兵範記』久寿(きゅうじゅ)2年〈1155〉12月2日条の「硯筥一合 在瓦硯(がけん) 紫檀筆台……」という記載とあわせてみれば、筆架式ともいうべき初期の硯箱の形が浮かび上がってくる。またこのほかに、硯を中央に収め、その左右に懸子(かけご)を配する二枚懸子の形式も古くから用いられていたらしく、現存する硯箱のなかでもっとも製作年代のあがる波鵜螺鈿(なみにうらでん)硯箱(平安末期、重文)、籬菊(まがきにきく)蒔絵螺鈿硯箱(鎌倉初期、国宝、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう))は、いずれもこの形をとっている。
なお、以上の2形式に加えて、懸子を1枚だけ身の右方に収めるもの、硯と水滴がはまるだけの空間をあけた敷板(下水板)を身の内に落とし込んだもの、さらに光悦・光琳(こうりん)系の作品にみられるように、左方に硯と水滴を配し、右端に刀子(とうす)入れを刳(く)ったものなど、身の構造にもさまざまなバリエーションがあるが、これらはみな室町時代の末から近世にかけて登場した新しい形式である。