京都市下京区にある、もと遊廓(ゆうかく)のあった地。山陰本線丹波口(たんばぐち)駅の東に位置し、上之町(かみのちょう)、下之町(しものちょう)、太夫(たゆう)町、揚屋(あげや)町などからなる地域。1640年(寛永17)、京都所司代板倉重宗(しげむね)により、六条三筋町(柳町)にあった遊廓を町はずれのこの地へ移転するように命じられ、以後、江戸時代を通じ京都で唯一の公許の遊里であった。西新屋敷(にししんやしき)が公式地名であるが、島原とよぶのは、遊廓の形が島原城(長崎県)に似ていたからとも、移転命令が急でその混乱状態が島原の乱のようであったからともいう。島原は、約2丁(220メートル)四方の周囲に溝を掘り、出入りは惣門(そうもん)の一方口とする本格的遊廓の最初のものであった。設立以来、元禄(げんろく)年間(1688~1704)までは繁栄したが、その特色は太夫(コッタイと俗称)の揚屋遊びにあった。その後、経済的・地理的条件に加えて、格式の墨守や妓品(ぎひん)の下落などのため、祇園(ぎおん)・二条・七条・北野の私娼(ししょう)勢力に押された。取締りによって私娼の一部が島原へ強制収容されることもあったが、もはや時流に添えず、さらに1854年(嘉永7)夏の大火によって決定的な打撃を受けた。明治維新後、毎年4月に廓(くるわ)内を行列して歩く太夫道中などの旧習を復活したが、すでに京都の遊興の中心は祇園に移っていた。それでも、1958年(昭和33)売春防止法施行までは遊廓として存続した。揚屋建築の角屋(すみや)(国指定重要文化財、現在は角屋もてなしの文化美術館)、松本楼、置屋の輪違屋(わちがいや)、大門(輪違屋と大門は京都市指定登録文化財)などが残っている。