小石や砂などの混ぜ物をつなぎとした粘土を素材に形づくり、焼き上げた容器。日本の縄文土器、弥生(やよい)土器、土師器(はじき)がその実例である。土器の焼成温度は600~900℃で一般に低く、後代の構造的な窯で焼いた陶磁器とは異なり、多くは平地または簡単な凹地(くぼち)で焼いたと推定される。焼成温度が高く、胎土(たいど)中の長石や石英などの鉱物が溶けて釉薬(ゆうやく)をかけた状態となり、ついには胎土も改良されてガラス質の光沢ある非常に硬い容器となる陶器(1200℃以上)や磁器(1350℃以上)とは区別される。また土器よりは高温で陶器よりは低温(1000℃以上)で焼かれたものは陶質土器とよばれるが、日本の須恵器(すえき)、朝鮮の新羅(しらぎ)焼がこれにあたる。
食物の調理法は、土器が存在しない段階では、生(なま)か、焼くか、焼け石をくぼみの水に入れて温度を上げる程度の方法しかなかった。ここに土器づくりがおこり、これはまさに人類が化学変化を応用した最初の大事件であった。以後、土器の使用により、いままで食べられなかった固い食物を柔らかくする煮炊きが容易になった。食物の可食範囲は著しく拡大した。その画期的な技術革新を重視して、旧石器時代から新石器時代への変革期と認めたことさえあった。
理論的起源論には、バスケットを土台に粘土を塗り、焼いた土器づくりを最初とする説に代表されるヒョウタン、皮袋などの容器模倣説と、パンづくりと土器づくりとを関連させて、製作工程の類似から説く説とがある。これに対し、考古学上の発掘事実を重視する立場がある。イランにある8000~9000年前のガンジ・ダレ遺跡からは、大地に固定して据え付けた土器が出土した。一方、移動可能な煮沸(しゃふつ)用容器は、長崎県泉福寺(せんぷくじ)洞穴出土の日本最古の豆粒文(とうりゅうもん)土器で、放射性炭素法年代測定によると1万2000年前のものである。現在のところ、日本最古の土器は同時に世界最古の土器となるが、世界各地の土器起源を単一起源説で説明はできない。おそらく異なった条件や自然環境のなかで、各地域それぞれの原因に基づいて発生したとみる多元説が妥当であろう。
土器の製作工程は、実物の観察と民族学的な知見と実験考古学とによって想定される。通常は、素地(きじ)作製、成形、調整、施文、乾燥、焼成の手順で進められる。
粘土の精粗と選別または混和材の種類によって、多種多様な胎土がつくられ、また特異な混和材は地域性や時代性を表し、その土器の一大特徴を形成する。
土器成形法は轆轤(ろくろ)の使用と未使用とに大別される。轆轤の初歩的なものには回転台があるが、多くの先史時代土器は、手捏(てづく)ね法、輪積み法、巻上げ法、型押し法などのまったく轆轤を使わない方法による。考古学では、小破片の観察で全体を推定するため、各方法が単独で一個体の技術全体であると思いがちであるが、民族例によれば二方法の組合せもある。
器壁を薄くし、器面を平らにし、器面の緻密(ちみつ)さや粗面の形成を目的にして形を整える調整がある。指先、布、革、骨、石、貝殻、割り板、竹、葉などを器面にあてがい、なでる、削る、ひっかく、磨く、塗るなどの作業をして、前記の目的を達する。
施文効果をあげるため、沈文、浮文、塗彩、彩文、描画、顔料充填(がんりょうじゅうてん)、象眼(ぞうがん)などの手法を用いる。
乾燥は、土器の形が完成し、文様が施されたあとで行われる。緻密な素地のものは日陰で時間をかけるが、粗放な素地のものは直射日光で短時間に乾燥させる。
窯の使用の有無や焼成の方法で、土器面の色調に変化が生ずる。
土器の本体および各部名は、土器全体の形を人体に見立てて、ものを出し入れする部分を「口」、最下端部を「底」、その間を「胴」とよぶ。各部の変化によって全形の変化が生まれ、深鉢、浅鉢、皿、甕(かめ)、壺(つぼ)、高坏(たかつき)などの種類に区別される。
日本の縄文土器は、深鉢形を基本形態として発達し、時代を追って各種の器形分化をみせた。弥生土器は、貯蔵用の壺、煮炊きの甕、盛り付けの鉢、高坏の主要器種分化がみられる。また日用品(実用品)と祭祀(さいし)・埋葬用とが区別できる。つまり形と大きさとは、その用途と深くかかわっており、吊手(つりて)形、器台、ランプ、香炉形など各種の変形があるが、甕棺として人体埋葬用のものさえある。しかし土器はなんといっても日用什器(じゅうき)の重要な役割を担っていた。
考古学研究では、生活に密着していた土器をとくに重視する。長い間に朽ち果てることもなく、多量の出土・発見が見込まれるからである。資料が豊富なうえに、時代的、地域的な特徴を敏感に反映している。ときには言語の方言と、土器の地域差とを重ね合わせて、文化史的意味をくみ取ることもできる。