一般的には、青灰色を呈し、堅く焼け固まった施釉(せゆう)しない素焼(すやき)の焼物であるということができるが、赤褐色を呈するものや、美しい自然釉が認められるものもあり、かならずしも一定しない。古墳時代に朝鮮半島からその製作技術が伝えられたもので、構築した窯(窖窯(あながま))を有し、1000℃以上の高温で焼成することや、ろくろを使用し多量の製品を同一規格でつくりうることなど、従来の土器(土師器(はじき))にみられない画期的な焼物である。とくに保水性に富む利点は貯蔵容器として需要を拡大した。器種には、貯蔵容器たる甕(かめ)、壺(つぼ)、供膳(くぜん)容器たる蓋坏(ふたつき)、高坏(たかつき)、器台、鉢など、煮沸容器として甑(こしき)がおのおのみられる。
製作技術は、遺物の近似することなどから、朝鮮三国時代の百済(くだら)、新羅(しらぎ)、伽倻(かや)地域からもたらされたとされるが、時期は4世紀末から5世紀後半までの間、諸説があり一定しない。文献史料からは『日本書紀』垂仁(すいにん)天皇3年の一云条に「近江国(おうみのくに)鏡(かがみ)村の谷の陶人(すえびと)は則(すなわ)ち天日槍(あめのひぼこ)の従人(つかいびと)なり」とある。さらに雄略(ゆうりゃく)天皇7年是歳(ことし)条には「新漢陶部高貴(いまきのあやのすえつくりこうき)」の名がみえる。前者は滋賀県蒲生(がもう)郡竜王町所在の鏡窯址(ようし)群を示すものと考えられるが、古くさかのぼる須恵器窯址は確認されていない。後者の故地は不明であり、両記事ともあいまいな点が多く、確たるものとはなりえない。須恵器は北海道を含む全国各地の遺跡から出土しており、その検討が年代、性格推定の重要な資料となっている。とくに規格性に優れる点から、その比較検討が可能で、主たる研究が型式編年の確立に向けられてきた。代表的な生産跡としては、大阪府陶邑(すえむら)窯址群、桜井谷窯址群、愛知県猿投山(さなげやま)西南麓(ろく)窯址群、岐阜県美濃須衛(みのすえ)窯址群、香川県陶邑窯址群、兵庫県札馬(さつま)窯址群などがある。なお平安時代の税、調として須恵器を貢納した国は『延喜式(えんぎしき)』によると、「和泉(いずみ)、摂津(せっつ)、山城(やましろ)、美濃(みの)、讃岐(さぬき)、播磨(はりま)、備前(びぜん)、筑前(ちくぜん)」の各国であった。