一般に、二つの車輪を前後に配置した構造をもち、おもに乗員の脚力で地面を走行する車両をさす。同じ2輪の車両として、日本語で「オートバイ」とよばれる原動機付きの二輪車があるが、道路交通法上では、自転車は「軽車両」に、オートバイは排気量により、「大型自動二輪車」「普通自動二輪車」「原動機付自転車」に分類される。「原動機付自転車」は、自転車の名を冠してはいるが、一般には自転車とはみなされていない。一方で、1990年代以降、自転車にバッテリーを搭載し、走り出しや坂道での走行を補助する「電動アシスト自転車」も登場し、事実上人力以外の力を借りているが、こちらは分類上は「軽車両」、つまり自転車の一形態となっている。
17世紀に出現した風車や水車を利用した粉ひき機、それに続く蒸気や電気を動力とする粉ひき機などが現れるまでの数千年の間、人間は自らの筋力や動物の筋力を駆使して、製粉したり水をくみ上げたりするなど、家事作業や産業労働に必要な機械力を得ていた。その一般的な方法は、たとえば回転レバーを回転軸に垂直に取り付けて、それを歩行する人間や動物が引っ張ったり、また傾斜させた円板の上を人間や動物が歩行して回転力を得るという方法がとられていた。また脚力のような強い力を必要としない場合は、初期の旋盤のように手でハンドルを回すことによって、上肢の筋力を機械力にかえてそれぞれの目的を果たしていた。いずれにしても、それらの作業の多くは、回転運動、つまり車の原理が取り入れられて目的を達成している。車の発明は古く、紀元前3500年~紀元前3000年ごろのエジプトやメソポタミアの絵に車輪をつけた運搬具がみられる。その後、車輪は大きな発展を遂げて、今日、さまざまな場所で利用されている。
このように、人力による車の着想はかなり古くからあった。人力による車、つまり自転車の起源は、メソポタミアの神殿のレリーフに描かれている牛車にみられるといわれるが、人力による乗り物は、15世紀初頭にイタリアの建築家フォンタナGiovanni Fontana(1395―1455)が描いているスケッチ(1420)が最初のものであろう。ここに描かれていたのは、今日の技術からみても興味深い機械要素として複雑なギア機構を組み込んだエンドレスロープ(一つにつながった循環するロープ)による手動の四輪車であった。15世紀終わりには、芸術家であり科学者であったレオナルド・ダ・ビンチが、チェーン機構の詳細なスケッチを描いているが、いずれの場合も実現することなく夢に終わっている。自転車の出現は19世紀の産業革命という技術的創造の時代まで待たなければならなかった。
自転車誕生の経緯をみると、初めは実用的な目的に供しようとしたものではなく、人間の気まぐれの所産として生まれたものである。つまり玩具(がんぐ)である。1787年、イギリスの雑誌『County Magazine』に掲載されているホビーホースhobbyhorseで、これは、鞍(くら)にまたがった乗り手が足で地面をけって、その反動で前進する仕掛けの、まだ方向転換もできない木馬型の自転車である。
今日、一般に自転車の前身といわれているのは、1817年、ドイツの貴族カール・フリードリヒ・ドライスが、木馬型自転車を改良し、方向転換のできるハンドルをつけた「ドライジーネ」とよばれる木製の二輪車である(特許の取得は1818年)。ただし、これも地面をけって前へ進むタイプのもので、今日の自転車の仕組みとは大きく異なっていた。
ペダルが取り付けられた自転車は、1861年、フランスのピエール・ミショーPierre Michaux(1813―1883)とその息子エルネストErnest Michaux(1849―1889)によってつくられ、1867年のパリ万国博覧会に出品された。これはベロシペードとよばれ、前輪に直接ペダルが取り付けられていた。その後、イギリスのミシン会社の技師ターナーRowley B. Turner(1840―1917)が、ベロシペードを取り寄せて大量生産を始め、イギリスの自転車工業の基礎を築いている。1870年、ジェームズ・スターレーJames Starley(1801―1881)は、イギリスの工業都市コベントリーに新しい自転車工場を建設し、仲間らと多くのデザイン開発をした。自転車のフレームに鉄製チューブを使用し、軽量化を図ると同時に耐久性をもたらし、それ以来、鉄製チューブはさまざまな技術分野の広い範囲で利用されている。
自転車開発における画期的なできごとは、1885年にスターレーの甥(おい)、ジョン・スターレーJohn K. Starley(1854―1901)によりつくられた安全型自転車の出現である。これは今日の自転車の原型といってもよい製品で、前輪と後輪の直径が同じ大きさであり、鉄製のチューブ・フレームを使用し、チェーン伝動をもったペダルと、ばね機構を備えたサドルが用いられていた。また、1888年にはジョン・ダンロップによって空気入りゴムタイヤが発明された。
自動車の伝動機構トランスミッションによるパワーの損失は15%であるといわれる。それに比べて、自転車の伝動機構であるチェーン伝動によるパワーの損失はわずか1.5%にすぎない。チェーン伝動機構は、15世紀末にレオナルド・ダ・ビンチが、チェーンと歯車を組み合わせた伝動機構の素描を残しているが、チェーン伝動機構が自転車に組み込まれるまで、自転車発展の過程でさまざまな試みがされている。
初期の自転車は前輪駆動のものが優勢を占めていた。これは構造が単純で軽量であるばかりでなく、前輪に取り付けたペダルが人力パワーをほぼ100%伝達できるからでもあった。しかし不便なことに、速度を大きくするためには必然的に前輪が大きくなってしまい、オールド・オーディナリとよばれる前輪の直径が60インチ(約1.52メートル)にも達する自転車が生まれている。オーディナリ型の自転車時代には、速度を増加させるためにクランクの有効長を調節することによって、前輪をクランク軸の2倍の速さで回すくふうがされたり、車輪軸にボールベアリングを使用したり、前輪にギアを取り付け、前輪軸より下方のクランク軸との間をチェーンで結び増速する方法がとられている。このギア付きオーディナリ型自転車は、安全型自転車出現への足掛りともなっている。
レオナルド・ダ・ビンチによるチェーンと歯車を組み合わせた後輪駆動の原理は、1829年フランス人ガルAndré Galle(1761―1844)によって再発見され、荷重伝達用チェーンとして使われている。後輪へのチェーン駆動機構が実際に自転車に取り入れられたのは、1879年イギリスのローソンHenry John Lawson(1852―1925)が自転車の生産を始めてからである。しかし、切れやすいチェーンが自転車の共通の悩みでもあった。このため自転車製造業者は冶金(やきん)学者らと協力して新しい材料を開発、切れない自転車用チェーンの量産はさまざまな機械の発展に貢献し、やがて自動車の伝動機構としても利用されることとなる。
チェーン伝動が自転車の駆動装置として定着し始めるとともに、人力を有効に利用するための変速ギアが開発されている。変速ギアは道路条件や風の影響などの環境条件の変化のなかで、乗り手が自己の体力の状態にあわせてペダルの踏力や速さをあまり変えることなく、ギアの比率を変えることによって人力を効率よく推進力に変える装置である。走行中の状況に応じてギア比を変える着想は、自転車にチェーン伝動が取り入れられ始めたころからあり、世界で初めての変速ギアは、1868年、フランスで発表されたレトロ・ダイレクトretro-direct型式の逆転ペダル型のもので、この型式の変速ギアは1900年以降に市販されている。その後、変速装置はフランスとイギリスでさまざまな考案がされており、変速ハブ機構の内装変速装置はイギリスで、ディレラーに代表される外装変速装置はフランスを中心とするヨーロッパ大陸で開発され、今日に至っている。
自転車は、フレーム、ハンドル、前後輪、ペダルやチェーンなどの駆動装置およびサドルなどで構成されるが、これを人間との関係でみると出力系と操縦系に大別できる。さらに人間―自転車系のインターフェースからみると、その接触面はハンドル、サドルおよびペダルである。主としてハンドルは操縦系に、ペダルは出力系に、サドルは安定性にそれぞれ関与している。これらの部品を含めた自転車全体の形態には、人力を効率よく働かせる主要因である乗車姿勢を適切にするための配慮が必要である。これにはフレーム寸法が人体寸法に適合していなければならないのは当然であり、さらにサドルやハンドル、ペダルの位置も適切でなければならない。またそれぞれの部品を設計する際に、人体の個々の寸法はもちろんのこと、人体の仕組みや働き(とくに股(こ)関節の仕組みや下肢の運動特性など)が十分に取り入れられていなければ、人力を有効に発揮できないばかりか、疲労の原因となり、安全性を欠くことにもなる。
サドルは自転車を安全に駆動、操縦するための乗員の座席である。つまりサドルの機能は体重を支えるばかりではなく、ペダリングの際の下肢の屈曲・伸展、股関節の運動において支障のない形態・構造でなければならない。サドルの形態や構造は、ほぼ200年に及ぶ自転車の歴史のなかで、さまざまな変遷をみせている。1800年代初頭のサドル、たとえばドライジーネのそれは、1本の棒状のフレームの上に木製のシートを固着したり、枕(まくら)状のシートが使われ、臀部(でんぶ)の痛さを避けるために毛布を巻き付けたり、厚い布を張り付けたりして用いられていた。
鉄製の板ばね付きサドルの開発は1840年ごろで、1845年にゴムが発明されると同時にサドルやタイヤにもゴムが使用されている。今日のようなスプリング付きサドルは、ミショーが1867年のパリ万国博覧会に出展した自転車につけて話題となり、その後ミショーはサドルをフレーム上で調節できるような機構を考案している。
サドルの開発においては、人体の会陰部への配慮から、さまざまな試みがなされている。20世紀初頭のサドルにみられるサドルのセンターラインにくぼみを設けたり、中央をくりぬいたりしたものもその例である。また、1970年代の後半には、サドルの設計資料として人体の骨盤の骨が用いられてサドルがつくられており、解剖学的サドルとよばれている。さらに、生体で人体の会陰部とサドルの関係を体圧分布によって追究しようとする試みもなされている。とくにサイクリング用自転車の女性用サドルでは、前傾乗車姿勢のため体重を支える部位が恥骨結合下縁と左右の坐骨(ざこつ)結節にかかり、会陰部への圧迫が大きいので、特別の配慮が必要とされる。
ハンドルは、サドルおよびペダルとともに乗車姿勢を決める役割を果たし、またハンドル操作によって自転車のバランスをとるという働きをしている。自転車走行においては方向制御、姿勢制御および速度制御が要求されるが、ハンドル操作はサドル上の重心移動とともに方向と姿勢の制御に即応している。
乗車姿勢を決める要因はフレーム寸法にも影響されるが、サドルとハンドルバーの位置関係に大きく左右される。またハンドル操作によりバランスをとる場合には、ハンドルの握り位置や寸法(たとえばハンドル幅は人体の肩峰幅にほぼ相当)などを考慮する必要がある。
ペダルは、自転車の動力源である人力をできる限り有効に伝えるための人間との接触面である。初期の自転車は直接足で地面をけって推進力を得ていた。1821年イギリスのゴンペルツLewis Gompertz(1783/1784―1861)がドライジーネに改良を加えて手動による前輪駆動の自転車をつくっているが、ペダルを踏んで後輪を駆動する自転車は、1839年スコットランドのマクミランSchmed Kirkpatrick Macmillan(1812―1878)によりつくられた。この自転車は、てこ利用の駆動方式である。足踏みの回転式クランクペダルは、1853年、ドイツの楽器製造業者フィッシャーPhilipp Moritz Fischer(1812―1890)がつくり、その後、改良が加えられ今日に至っている。
ペダルにかかる踏力は、クランクの回転運動により後輪に伝えられる。ペダルは足の運動に抵抗なく追随でき、運動によって足が滑らないような配慮が必要である。また、サドルとペダルの位置関係は踏力に影響するので、乗車時に調整が必要である。
自転車は、人力だけでの歩行や走行よりも少ないエネルギー消費で楽に長距離を移動できるというメリットがあることから、これまで発達してきた。自転車を輸送コスト、つまり自重1グラム当り1キロメートル走行するのに要するエネルギー消費でみると、人間(0.75カロリー)は、ジェット旅客機(0.6カロリー)には及ばないが、自動車(0.78~0.85カロリー)より効率がよく、人間+自転車走行ではわずか0.15カロリーで、世の中のさまざまな移動手段のなかでもっともよい効率を示している。しかも、走行に際してわずかな空間で足りる。ロンドンにおける交通機関調査によれば、一定の距離を移動するのに1人の人が使用する道路の面積は、歩行者を1としたとき、乗用車は142、バスの乗客は3、オートバイは9、自転車は0.5である。
動物の歴史は空間移動の発展史であるといわれる。人類の歴史も例外ではない。二足歩行に始まり今日のジェット機に至るまで、すべて空間移動の発展の軌跡である。前述のように、輸送コストからみると自転車走行がもっともよい効率ではあるが、人力以外の動力をもった車に比べると、当然人体に負担がかかる。
それでは、歩行と自転車走行では人体にどのような生理的負担の違いがあるのか。人体の運動の強さを調べるのには、自転車エルゴメーターが用いられる。これは、ペダリング運動に種々の負荷を与え、その平均測定値から求めた酸素摂取量とエネルギー消費量を日常の身体活動や運動に当てはめたもので、歩行と自転車走行を比較すると、時速21キロメートルでの自転車走行時における酸素摂取量が、時速7キロメートルの速さの歩行時のそれを若干上回る程度の生理的負担である。
また、エネルギー代謝率でみると、1分間に80メートルの速さでの歩行のエネルギー代謝率(2.8)が、平坦(へいたん)な道路を1分間に180メートルの速さで走行する自転車乗車時のそれ(2.9)とほぼ同じ程度の生理的負担である。これを日常生活におけるエネルギー代謝率と比較してみると、階段の昇降では1分間に40メートルの速さで昇るときは5.1~6.5、1分間に50メートルの速さで降りるときは2.5、また、ふとんを押入れから出し入れするときでは、たとえば、かい巻、毛布、掛けぶとんおよび敷きぶとんをそれぞれ1枚押入れにしまうときのエネルギー代謝率は4.3、同様のものを押入れから出して敷くときは5.3である。つまり、自転車走行時の生理的負担は日常生活におけるそれとあまり変わらない状態でありながら、移動のための効率は、たとえば歩行に比べてほぼ2.5~3倍もよいことになる。これは、生理的負担でみても自転車は効率的な乗り物であることを物語っている。
便利である自転車の欠点の一つは、坂道の登坂に弱いことである。今日では変速ギアの普及でこの点はかなり解消されてはいるものの、それでも登坂時の生理的負担は大きい。では、自転車による登坂が人体にどのような負担となり、登坂時に変速ギアを使用した場合、どの程度その負担が減少するか。まず平坦な道路から勾配(こうばい)が10%までの坂道の登坂について、一般に行われているジョギング時の生理的負担を一つの目安にして比較してみる。ジョギングと同程度の運動をサイクリングで行おうとすると、つねに時速22~25キロメートルの速さで走らなければ運動したことにはならない。さらに各勾配ごとの負担をみていくと、坂が急になるにしたがって走行速度が落ち、速度を速めようとすれば運動強度が大きくなり、それだけ負担が増加する。これを100メートル走行時の酸素摂取量でみると、それぞれの勾配で生理的負担が小さくなる速度が存在する。つまり生理的負担からみた至適速度である。しかし、実際には個人の体力や疲労などが影響して、走行速度は平地では至適速度よりも多少速く、きつい勾配では遅くなる傾向を示している。
変速ギアは、人力を効率よく推進力に変換する装置であり、とくに登坂時の走行に効力を発揮する。低速用ギアは、同じ速度に対してペダリングの回転数を増すことによって、1回転当りのトルクを減らして生理的負担を少なくしようとするものである。それぞれの勾配でギア比(前輪のギアと後輪のギアの歯数の比率。通常は前輪ギアの歯数÷後輪ギアの歯数で求める)を変えたときの速度、つまりペダリングの回転数と生理的負担との関係を酸素摂取量でみると、たとえば10%の勾配の登り坂を走行するとき、ギア比が3.06を使って時速10キロメートル(60回転/分)で走ったときの酸素消費が3.1リットルであるのに対して、ギア比の小さい1.35を使って同じ速さで走った場合には、酸素消費量が2.31リットルと、ほぼ3分の1近く減少している。つまり、変速ギアは適切な使われ方をすれば、生理的負担を小さくすることを物語っている。
なお、1993年(平成5)に販売が開始され、普及が進んでいる電動アシスト自転車は、モーターによりペダルを踏む力を軽減させるため、登坂時に威力を発揮する。実際、電動アシスト自転車の購入理由は、「居住地付近に坂道が多いから」がトップとなっている。(au(エーユー)損害保険株式会社による2020年2月の利用実態調査より)。
第二次世界大戦前から戦後にかけて、主として荷物運搬のための実用車として発達してきた日本の自転車は、今日、1世帯当り1.22台を保有するほどに普及している(2018年。自転車産業振興協会調査より)。また、その使われ方も、通勤・通学用の交通手段としての重要な役割を担うとともに、一方ではヨーロッパにおけると同様にレジャー、スポーツ用にも活用されるようになってきている。
1980年(昭和55)ころ日本に紹介されたオフロード向け自転車のマウンテンバイクmountain bike(MTB)は、1990年代にはアウトドアブームにのって急激に普及し、オフロードばかりでなく、市街地などでの利用も多くなっている。こうした自転車利用の増大に伴って、交通事故件数の増加や、駅周辺などにおける無秩序かつ大量の自転車の放置などが社会問題となっており、自転車の安全利用に関する対策も必要になってきている。
日本の自転車の歴史は輸入車によって始まったが、20世紀初頭、1901年(明治34)には5万6600余台の自転車が国内で保有されていた。国内での量産は、1893年(明治26)に宮田製銃所(1902年宮田製作所、1963年宮田工業と改称。現、ミヤタサイクル)での、空気入りタイヤのイギリス式自転車の生産(年間生産能力500台)に始まり、第一次世界大戦のころには輸入が途絶したこともあって、国産車の生産が急伸し、輸入車の時代に終止符を打つ契機となった。
1908年には宮田製作所の自転車数台が中国に輸出され、1915年(大正4)のニュージーランドからの1000台の引き合いが契機となって、日本製自転車の海外輸出が始まった。
第二次世界大戦中、一時、自転車の生産は途絶したが、戦後再開され、1990年ころまでは国内の需要はほぼ国内生産でまかなわれていた。1990年の生産台数はほぼ800万台で、輸入は100万台に満たなかった。しかし、平成時代に入り、輸入が激増する一方で国内生産は減少の一途をたどり、2020年(令和2)の国内生産台数はおよそ87万台となっている。うち、61万台余りが電動アシスト自転車である。一方、輸入は631万台で、国内生産比率は12%程度にすぎない。なお、国内の自転車保有台数は、2019年時点で、6760万台となっている(自転車産業振興協会調査より)。
自転車の交通事故の件数については、乗車中の死亡事故件数は平成以降大きく減少している。たとえば、1992年の交通事故死者数1万1452人から2019年の3215人へと7割以上減っているのと同様、同時期の自転車乗車中の死者数は、1198人から433人へと63%減少している。また、2009年と2019年の10年間で、交通事故全体の件数も自転車関連事故件数もほぼ半減している。ただし、自転車対歩行者の事故件数はほぼ横ばいで、相対的に自転車と歩行者の事故は減っていないといえる(警察庁交通局調査より)。
自転車の交通にかかわる事故の防止と交通の円滑化を図り、あわせて自転車利用者の利便性の増進を目的とする「自転車の安全利用の促進及び自転車駐車場の整備に関する法律」(通称、自転車法)が1980年に制定され、自転車通行の安全確保のための道路交通環境の整備が進められたが、実効をあげるに至っていない(同法は1994年に改正・改題され、現在の正式名称は「自転車の安全利用の促進及び自転車等の駐車対策の総合的推進に関する法律」)。一方、駐車場(駐輪場)は地方自治体を中心に関係諸団体が整備を進め、2020年時点で、全国の駅周辺における収容可能台数は約474万台となっており、駅前の放置自転車台数も2000年前後の56万台に比して、2020年には5万台を切るなど、一定の成果は出ている(国土交通省交通安全対策室調査より)。
2000年代以降、自転車の通勤利用が大都市を中心に増加している。そのきっかけとなったできごとが二つある。一つは2011年3月に発生した東日本大震災である。震災当日の夜、首都圏ではほとんどの通勤路線が運行をストップし、「帰宅難民」(帰宅困難者)が発生。翌日以降も計画停電で多くの鉄道が間引き運転を余儀なくされ、東京の通勤に大きな混乱が生じた。これをきっかけに一部の通勤者が自転車にシフトし、駐輪場やシャワーを整備したり、自転車通勤に手当を出すなどの対応をする企業が現れ、都会の会社員の自転車通勤が社会的に認知されるようになった。もう一つは2020年の新型コロナウイルス感染症(COVID(コビッド)-19)拡大で、通勤電車の混雑を避けるためにふたたび自転車へのシフトがみられたことである。さらにこうした動きを後押ししたのが健康志向の高まりや温室効果ガスの排出抑制の流れであり、自動車利用者の自転車へのシフトもみられるようになった。
また、都市内の移動についても、2010年代に入って、各地に設置された自転車置き場から自転車を借り、目的地の近くの拠点に返すことができる、いわゆるシェアサイクル(コミュニティ・サイクル)が東京など各地に設置され、市民権を得るようになった。こうしたシステムは、パリやロンドンなど欧州各地から中国などアジアへと広がりをみせ、それが日本にも波及した形であるが、スマートフォンで簡単に開錠や使用料金の決済ができるようになったこともあって、都市内の移動に一定の役割を果たすようになっている。
第二次世界大戦後のモータリゼーションの進展にあわせて、20世紀なかば以降、とくに日本では、「自動車のための道路建設」が進む一方で、自転車は、「ママチャリ」ということばに代表されるように、主婦や子供が買い物や送迎のために乗る補助的な交通手段と考えられ、その通行帯についてはあまり顧みられてこなかった。また、自転車は、軽車両に分類されるため、車道と歩道の区別がある道路では、車道の走行が義務づけられているが、自転車が安全に走行できるようなスペースがない車道が多く、1970年代から例外的に一定の条件下で歩道走行が認められてきた。そのため「自転車は歩道」という誤ったイメージが広がり、車道の端を走れば車からじゃま者扱いされ、歩道を走れば歩行者と接触し事故の加害者となるリスクを背負うという、どっちつかずの立場に置かれ続けてきた。
一方、オランダやデンマークなどヨーロッパの一部の国では、環境への配慮や自転車の利便性の高さなどに注目し、自転車を都市交通の重要な担い手と位置づけ、自転車専用の走路、つまり自転車道や自転車レーンの整備が進んできた。2000年代に入って、パリやロンドン、台北(タイペイ)やソウルなど世界の大都市でも、自転車の走路を確保しようという動きが顕著になっている。
自転車道路の整備の経緯を歴史的にみると、すでに19世紀末にはオランダで自転車道路がつくられており、またイギリスでは1878年に自転車観光旅行クラブが結成され、これが母体となって道路整備を促進した。アメリカでは1901年に結成されたアメリカ自転車乗車連盟が道路整備の端緒をつくっている。そして今日、オランダのハーグでは自転車専用路線が整備され、その結果、利用者も大きく増加したといわれる。またアメリカではサン・ディエゴの高速道路に自転車レーンが設けられ、サンタ・バーバラでは自転車用の自動感応信号が設置されるなどしている。
日本では、1966年(昭和41)に自転車産業振興協会が中心となって自転車道路をつくる運動が展開され、翌1967年、神奈川県の平塚―大磯(おおいそ)間に13.4キロメートル(幅員2メートル)の自転車専用道路が初めて完成した。自転車道路の整備は、前記の自転車法の制定・施行をはじめとするいくつかの制度により進められている。
その一つが大規模自転車道整備事業で、1973年から、太平洋岸自転車道をはじめ、全国70か所に及ぶ地域に4330キロメートルに及ぶ自転車専用道路を建設しようとする計画である(2019年度末時点で約9割が整備済み。国土交通省自転車活用推進計画より)。もう一つは、歩行者と分離された自転車通行空間の整備で、2020年3月時点で約2930キロメートルとなっている。