室町後期の画家。狩野派の始祖狩野正信の長男とも次男ともいわれ、初め四郎二郎、のちに大炊助(おおいのすけ)、越前守(えちぜんのかみ)に任ぜられ、永仙と号した。その後の狩野派発展の基礎を確立した人物である。法眼(ほうげん)にも叙せられたことより、江戸時代の画史・画伝類では、敬愛を込めて「古法眼」とよばれた。1513年(永正10)『鞍馬寺(くらまでら)縁起絵巻』を細川高国の命により描き、またこのころ大徳寺大仙院客殿襖絵(ふすまえ)を制作。その水墨を基調に要所要所に濃彩を施した障壁画(しょうへきが)は、明快で平明な画調を示し、きたるべき桃山期障屏画(しょうへいが)の先駆をなすもので、この作品によってまさしく近世絵画への幕が切って落とされたといえよう。そうした元信の画業は、43年(天文12)の妙心寺霊雲院方丈襖絵に典型的に示されている。
また元信は、幕府をはじめ宮廷、公武、町衆など各層からの幅広い需要に応じるべく、多数の門人を率いて障屏画から絵馬(えま)、扇面画に至るまで精力的に制作した。1535年内裏(だいり)に水墨の屏風(びょうぶ)を納め、その6年後には大内義隆(よしたか)より明(みん)に贈る金屏風、金扇の注文も受けた。また39~53年には弟子とともに石山本願寺の障壁画制作を担当、単に禅宗寺院や自らも信奉した日蓮(にちれん)宗の寺院からの注文に応ずるだけでなく、職業画人として他宗派からの需要にも積極的にこたえたことが知れる。こうした点にも、元信の近世的性格がうかがわれる。技法的には、中国伝来の水墨画の画法に在来の土佐派の技法を折衷、新時代の感性に適合した明快な絵画様式を創造した。代表作に、前述の大仙院と霊雲院襖絵のほか、『瀟湘(しょうしょう)八景図』(妙心寺東海庵(あん))、『四季花鳥図屏風』、『清凉寺縁起絵巻』(京都嵯峨(さが)・清凉寺)がある。