さまざまな光景、映画や写真など、目に映る事象の形、動き、明暗、色彩などを、エレクトロニクス技術を用いて遠方に伝え再現する仕組み、またはその装置。略してテレビ、またはTVともいう。一般家庭を対象にした放送のほか、産業用、教育用、あるいは防災・防犯用にと幅広い分野で活用されている。
[木村 敏・吉川昭吉郎]
1873年イギリスのスミスWilloughby Smith(1828―1891)らは、窓から入る光によってセレンの光導電現象を発見、セレンの抵抗が光によって変わることをみいだした。明暗を電気の強弱に変えて遠方に伝えるテレビジョンの開発はこのときに始まった。1875年アメリカのケアリーGeorge R. Carey(1851―?)が早速、多数の光電変換素子で画面の各部の明暗を電気の強弱に変え、同数の伝送路を使って送る多線式テレビジョンを考案している。
1884年ドイツのP・G・ニプコーは、周辺に24個の穴をあけた円板を一つの光電変換素子の前で回転し、画面の各部の明るさを次々に順序よく取り出す順次伝送方式のテレビジョンを試みた。受像側では再生画像をのぞき見したことから、この実験を電気望遠鏡とよんだともいわれている。このような機械式走査と光電変換素子を用いる撮像方法は、その後長らくテレビジョンの基本的手法として使われる。
1889年ドイツのJ・エルスターとH・F・ガイテルが、アルカリ金属を陰極とする光電管を発明、また1897年にこれもドイツのK・F・ブラウンがブラウン管を考案して、光電変換素子および表示素子に進歩をもたらした。なおブラウン管がテレビジョンの受像実験に初めて用いられたのは、1907年ロシアのロージングБорис Львович Розинг/Boris L'vovich Rozing(1869―1933)によってであるが、像はかすかなものであったと伝えられている。
テレビジョンの最初の公開実験は、1925年イギリスのJ・L・ベアードによって有線で行われた。1927年にはアメリカのベル研究所がワシントン―ニューヨーク間の長距離有線伝送実験を公開、翌1928年にはベアードがロンドン―ニューヨーク間の大西洋横断送信を行っている。またベアードはこの年世界最初のカラーテレビ実験にも成功している。
電子的な走査方法、撮像管の利用は、1908年イギリスのキャンベル・スウィントンAlan Archibald Campbell-Swinton(1863―1930)が、ルビジウム膜の光電モザイクを用いた撮像用陰極線管を発表したのを嚆矢(こうし)とするが、安定度、感度など性能の面で撮像管が実用化されるようになるのは、1933年アメリカのV・K・ツウォリキンがアイコノスコープを発明するまで待たねばならなかった。
[木村 敏・吉川昭吉郎]
日本におけるテレビジョンの研究は、1925年(大正14)高柳健次郎によって始められた。高柳は、撮像・受像とも電子式のテレビジョンを開発しようと、セレン膜を光電変換に利用する撮像管の試作を進めたが成功に至らず、撮像はニプコーの円板を用いた機械式走査、受像にはブラウン管を用いる方式により、1926年に初めて「イ」の字の伝送に成功した(この実験が行われた浜松市には、「イ」の字を刻んだテレビ発祥の地の記念碑がある)。また1928年(昭和3)には人の顔を写し出した。このときの走査線数は40本であり、現在のテレビジョンに比べてかなり粗い画面だったことがうかがえる。一方、早稲田(わせだ)大学の山本忠興(ただおき)、川原田政太郎(かわはらだまさたろう)は1926年、機械式走査によるテレビジョンの研究を開始、1930年に約1.5メートル四方の大受像画面(走査線数60本、毎秒像数12.5枚。早稲田大学式テレビ、早大式テレビともいう)を公開した。その後、日本電気(NEC)、東京電気(東芝の前身)、日本放送協会(NHK)などテレビジョンを研究する企業も現れ、また各地の展覧会などへのテレビジョンの出品も盛んとなり、一般の関心も高まっていった。
[木村 敏・吉川昭吉郎]
テレビ放送は1928年、アメリカのWGY局が実験放送したのが最初とされている。このときすでにテレビドラマも放送されたという。以後、ドイツ、イギリス、ソ連、フランスなどが機械式走査によるテレビジョンの実験放送を始めている。1935年ドイツが本放送を開始、翌1936年ベルリンで開かれたオリンピック大会の実況中継をテレビ放送した。このとき撮像にアイコノスコープカメラも用いたが、機械式走査基準の走査線数180本で放送した。走査線数が400本を超える全電子的テレビ放送は、1935年イギリスで始まった。機械式走査によるテレビジョンと1日交替の実用化試験だったが、1937年には機械式は取りやめとなり、全電子式が正式放送となっている。これが現在のテレビ放送の始まりといえよう。
日本のテレビ放送は、1939年5月13日の実験電波発射に始まる。ドイツがベルリン・オリンピック大会をテレビ中継したことに刺激を受け、1940年に予定されていた東京オリンピックをテレビ中継しようと、NHK放送技術研究所が高柳健次郎を迎えて本格的に進めていた研究・開発の成果が、実験放送として実ったものである。東京オリンピックは世界情勢の緊迫化により中止されたが、テレビジョンの実験放送は1941年6月まで続けられた。この間、日本最初のテレビドラマ『夕餉前(ゆうげまえ)』(1940)も放送された。
1941年、太平洋戦争の勃発(ぼっぱつ)でテレビジョンの研究は中止、戦後1946年(昭和21)研究は再開されたものの、テレビ放送の再開は1950年2月25日まで待たねばならなかった。東京での実験放送開始に引き続き、1951年には大阪、1952年には名古屋でも実験放送が始まり、この3局を結ぶテレビ中継回線も1953年にNHKの手で完成した。本放送は1953年2月1日にNHKが、同年8月28日に初の民放テレビ局の日本テレビ放送網(NTV)が開始している。
放送開始当初、テレビ受像機は非常に高額であり普及はなかなか進まなかったが、駅や公園、盛り場に設置された街頭テレビには多くの人々が集まり、プロレスをはじめとしたスポーツ中継に熱狂した。1956年に神武(じんむ)景気が始まると、テレビは電気洗濯機、電気冷蔵庫とともに「三種の神器(じんぎ)」として広く普及することになった。
1959年の皇太子御成婚は日本中の関心が集中した一大イベントであり、せめてテレビででも実況を見たい、どうせ買うのならこの機会にという人々が購入し、爆発的に普及していった。しかしながら、全国的に見ればNHK32局、民放27局が放送を行っているのみで、全国の70%程度の世帯にしか電波が届いていなかった。その後、1964年の東京オリンピックの開催を目ざして急速に放送所が建設されることとなる。
[木村 敏・吉川昭吉郎]
日本のカラーテレビ放送は1956年12月20日に実験放送として始まり、1960年9月10日から、アメリカ、キューバに次いで世界で3番目に本放送が開始された。放送方式としてアメリカのテレビジョン方式検討委員会(NTSC)の定める走査線数525本のNTSC方式を採用し、カラーテレビはもちろん、白黒テレビでも放送を受信できることが特長であった。放送開始当初はカラーテレビが自動車並みの価格であったこともあり、期待されたほどの普及はしなかった。その後1965年のいざなぎ景気で国民の所得が増大し、量産効果によるカラーテレビの価格の低下と相まって、自動車(car)、クーラー(cooler)、カラーテレビ(color television)を「三C商品」とよぶ消費ブームが巻き起こった。その結果、1973年にはカラーテレビの普及率が75%を超えて、白黒テレビと逆転することとなった。
1969年12月20日、アメリカの劇映画『ぼくはついている』が東京と大阪で原語の英語と吹き替えの日本語の2か国語で放送された。世界に先駆けたテレビ音声多重放送の実験の始まりであった。翌1970年3月には大阪で万国博覧会が開幕、ニュースや万博だよりを日本語と英語で放送し、またテレビの音楽番組にステレオ音をつけて放送したりもした。音声多重放送は1982年には本放送となり、2001年には民放局を含め全国どこでも受信できるようになった。もう一つのテレビ多重放送である文字多重放送も1983年に実験放送が始まり、1985年には本放送となった。
[木村 敏・吉川昭吉郎]
山地の多い日本の地形でテレビの全国普及を図るため、NHK総合テレビだけでも全国2214局(2015年12月時点)で放送されているが、それでも離島などで難視聴地域が残ってしまう。以前、東京タワーでは50キロワットの出力で放送を行い、関東一円にサービスを行っていたが、赤道上空3万6000キロメートルの軌道にある静止衛星から放送すれば、わずか100ワットの出力で日本全国をカバーすることができる。
このような静止衛星を通信・放送に利用するという発想は、1945年、イギリスのSF作家A・C・クラークが3機の静止衛星で全世界をカバーする通信網を構築するというアイデアを発表したのが最初であった。
1963年(昭和38)11月23日、初めての日米間テレビ衛星中継が行われた。このときテレビの前にいた日本の人々の目には、アメリカ大統領ケネディ暗殺というショッキングなニュースが飛び込んできた。翌1964年には東京オリンピック開会式の模様が衛星を介してアメリカ全土に中継された。これまでフィルムかビデオテープでしかできなかった海を隔てた国との番組交換が、衛星中継によって即時にできることを示した大きなできごとであった。
こうした成果を受けてNHKは、1965年に自前の衛星を打ち上げ、各家庭で直接電波を受信する衛星放送を行う構想を発表し、放送衛星の研究を開始した。1968年には政府が宇宙開発委員会を発足させ、日本は自らの技術による純国産宇宙開発を目ざすこととなり、翌1969年、ロケットや衛星の開発を推進する宇宙開発事業団(NASDA(ナスダ)。現、宇宙航空研究開発機構=JAXA(ジャクサ))が設立された。衛星からの電波は容易に世界各国に届いてしまうため、限られた電波や静止軌道位置を各国に割り当てる必要がある。当時の衛星は太陽電池を電源として動作していたが、搭載するバッテリーの能力不足のため、太陽が地球の陰となってしまう「食」の時間帯は放送を中断せざるをえなかった。この「食」の時間帯が日本で深夜となる軌道位置が東経110度であり、1977年に開催された世界無線主管庁会議(WARC-BS)で日本は希望どおり東経110度の衛星軌道と、12ギガヘルツ帯で8チャンネル(チャネル)の周波数割当てを受けた。1978年、実験用中型放送衛星「ゆり」が打ち上げられ、各種の実験が行われた。その結果に基づき1984年5月から放送衛星「BS-2a」によるテレビジョンの試験放送を開始した。その後、1986年には2波(2チャンネル)放送、1987年には24時間放送を開始し、1989年(平成1)から本放送となった。2016年(平成28)3月の時点で、約4045万世帯に普及している。
衛星放送には放送衛星(BS:broadcasting satellite)を使うBS放送と、通信衛星(CS:communications satellite)を使うCS放送がある。初期のCS放送では、地球から見た通信衛星の角度が放送衛星のそれと違っており、別々のパラボラアンテナ(回転放物鏡アンテナ)を設置する必要があり、不便であっただけでなく、制度上もBSとCSは別の扱いを受けていた。2002年に方位が放送衛星と同じ110度CSデジタル放送が開始され、同一のパラボラアンテナでBS、CSが受信できるようになった。制度上も2011年6月に衛星基幹放送として統一された。衛星放送は初めアナログ放送として出発したが、現在はBS、CSともデジタル放送である。
[木村 敏・吉川昭吉郎]
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放送をデジタル化することによるメリットは、割り当てられた周波数を有効に使用することが可能となることであり、HDTVのような高画質・高音質化と、多チャンネル化の二つの選択肢があった。1994年、アメリカでの多チャンネル衛星放送がデジタル方式で開始されたのを手始めに多チャンネルのデジタル放送が各地で始まった。
日本でも、1996年(平成8)10月に通信衛星を使用した多チャンネルを特長とするCS放送が開始された。高画質のHDTVとデータ放送を特長とするBSデジタル放送は、2000年(平成12)12月より放送を開始している。2002年3月には、BSデジタル放送と同様のハイビジョン放送が110度CSで開始された。2003年にはUHF帯の電波を使った地上デジタル放送が開始され、ハイビジョン規格の高品位放送が行われている。スマートフォンなどの携帯端末やカーナビゲーション用のワンセグテレビのサービスも行われている。
[木村 敏・吉川昭吉郎]
日本の地上デジタル放送は41のチャンネルをもち、一つのチャンネルの周波数帯域幅は6メガヘルツとなっているが、この帯域はさらに13のセグメント(部分、分割の意)に分けられている。高品質のHDTV放送には12セグメントが割り当てられる。画品質よりも経済性を優先する用途に対応して1セグメントのみを使って放送するのが1セグメント放送で、これを略して「ワンセグ」とよぶ。ワンセグは、携帯電話、スマートフォン、カーナビゲーションシステムなどに使われている。
[吉川昭吉郎]
3D(スリーディー)(三次元)方式は立体テレビのほか、立体映画としても試みられている。立体感覚をもつ動画を実現する方法として、サイド・バイ・サイド方式と、ライン・バイ・ライン方式があるが、3D映画や3Dテレビで採用されているのは、サイド・バイ・サイド方式である。これは、元画像の横幅を2分の1に縮めて、左側から撮影した画像と右側から撮影した画像を並べて配置し、再生時には縮めた横幅を2倍にして元に戻し、2枚の画像にする。立体画像として見るには、一般的には特別の眼鏡を使う。初めのころは左右違う色の眼鏡、たとえば赤青眼鏡を使う、アナグリフ方式が使われたが、色の再現に難があった。
その後、2009年ごろから3Dテレビではフレームシーケンシャルという方式が使われている。これは高速で左右のシャッターが開閉する眼鏡を使うもので、色再現がよい。多少暗くなるなどの難点があるが、適切な画像素材では、みごとな立体視が実現される。しかし、眼鏡を使う方式は左右に配置された二つの画像を再生時に合成するので、寝転んで見ると立体画像にはならない。3Dテレビや3D映画を眼鏡なしで見ると、二重写しのようなずれた画像が見えるだけである。眼鏡を用いない3Dテレビとして、パラックスバリア方式などがある。これはディスプレー側に特殊なフィルターを設けて左右の目で違う画像を見るものである。3Dテレビは将来のテレビ方式の一つとして期待されているが、放送規格が決まっていない、コスト高、ユーザー側の使い勝手の好みがはっきりしない、など種々の難点があり、2017年3月時点ではあまり普及していない。3Dテレビの放送もたまに行われる程度で、すべてが今後の発展にかかっている。
[吉川昭吉郎]
4Kテレビおよび8Kテレビは、現行のHDTVに次ぐ次世代UHDTV(ultra high definition television:超高精細度テレビジョン)方式のテレビである。Kとはキロ、すなわち1000を意味し、4Kテレビの名は、この方式が水平(横)画素数約4000(正確には3840)をもつこと、8Kテレビの名は、水平画素数約8000(正確には7680)をもつことに由来する。ちなみに現行のHDTVの主流であるフルハイビジョンの水平画素数は約2000(正確には1920)で、4Kテレビにならえば2Kテレビとなる。4Kテレビ画面の画素数は水平3840×垂直(縦)2160の829万4400で、フルハイビジョン画面の画素数(水平1920×垂直1080の207万3600)の4倍、8Kテレビ画面の画素数は水平7680×垂直4320の3317万7600で、フルハイビジョン画面の画素数の16倍となる。NHKは8Kテレビにスーパーハイビジョンの愛称をつけ、4Kテレビと並行して放送実施に力を入れている。画面のアスペクト比はいずれもハイビジョンの場合と同じ16対9である。4Kテレビ、8Kテレビの特長として、ハイビジョンに比べて画面のきめが細かいことに加え、視野角が広く視聴位置が正面からずれても画品質の劣化が少なくなり、臨場感が向上することがあげられる。UHDTVの国際規格化は、日本の提案をもとに国際電気通信連合(ITU)の無線通信部門(ITU-R:ITU-Radio Communication Sector)で検討が行われ、2012年8月、正式規格として採用された。
日本では、BS17チャンネル(地上デジタル難視聴対策衛星放送として設定されたチャンネルで、運用終了後空きチャンネルとなっているもの)を使って、2016年12月に4Kの試験放送を、また同じBS17チャンネルを時間分割で利用して2016年8月に8Kの試験放送を開始し、2年後の2018年秋にBSデジタル放送および110度CSデジタル放送を使って、4Kと8Kの実用放送を開始する予定となっている。地上デジタル放送での4K・8K放送は2017年3月時点で実施の予定はなく、将来実施の計画も公表されていない。
現在、市販されている40型以上の大型テレビ受像機は、4Kテレビが主流となっているが、すべて「4K対応テレビ」で、4K放送受信用のチューナーは搭載されていない。そのため、2018年に4K実用放送が開始されてもそのままでは受信・視聴することはできず、視聴するためには実用放送開始前に発売されると予想される4Kチューナーを購入して併用する必要がある。それまでは、ハイビジョン放送(2K)を受信し、超解像技術で4K相当にアップコンバート(上位変換)した映像を視聴することになる。この場合、ハイビジョン信号に付帯するブロックノイズ(受信条件が悪いとき、映像の一部がモザイク状になる障害)なども軽減される。純正4Kではないため、「擬似4K」あるいは「4Kもどき」などといわれるが、超解像技術の性能が高く、画像はフルハイビジョンのそれに比べて明らかにきめ細かく高品位である。
2017年3月時点では民生用8Kテレビ受像機はまだ発売されておらず、8Kテレビ放送が開始されても、当面の用途として公共の場所でのデモンストレーションなどになることが考えられる。4Kテレビ、8Kテレビの詳細については、別項目「4Kテレビ」を参照されたい。
[吉川昭吉郎]
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テレビ放送局の設備は、大別すると、番組をつくるための設備、番組を記録しておく設備、番組を送り出し電波にのせる設備になる。
[木村 敏・吉川昭吉郎]
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