アメリカ陸軍元帥で第二次世界大戦の英雄、第34代大統領。10月14日テキサスの農家に7人兄弟の三男として生まれる。弟ミルトンはのちジョンズ・ホプキンズ大学学長。信仰深い両親のもとカンザス州アビリーンで育ち、1915年陸軍士官学校(ウェストポイント)を卒業。陸軍大学を経て、おもに陸軍省で補給兵站(へいたん)の立案に従事し、1932年陸軍参謀総長マッカーサーの副官となる。1935年からフィリピン軍事顧問となったマッカーサーのもとで、1939年まで現地軍の育成にあたった。第二次世界大戦で北アフリカ方面軍司令官として勲功をたて、1943年暮れヨーロッパ連合国軍総司令官に任命される。混成軍をよくまとめ1944年6月ノルマンディー上陸作戦を指揮、フランスを解放しドイツの無条件降伏をもたらした。1944年12月元帥に昇進、1945年11月陸軍参謀総長となったが、1948年に退役、コロンビア大学学長に就任。1950年北大西洋軍最高司令官となったが、1952年の大統領選挙に共和党国際派から推されたため辞任、保守派のタフトを破って共和党候補となり、本選挙では前イリノイ州知事スティーブンソンを大差で破った。
赤ん坊のような笑顔に示される持ち前の人柄で、戦後もっとも人気のある大統領の一人といわれる。内政をアダムス補佐官、外交をダレス国務長官に多く任せ、ニクソン副大統領を重用して「素人(しろうと)大統領」の超然としたポーズで慎重な施政を行った。第1期は経済の好況に支えられ、外交面ではスターリン死後のハンガリー暴動に手出しせず、インドシナ戦争で苦戦するフランス軍への援助を拒否、スエズ戦争では英仏の出兵に反対するなど、低姿勢を取り続けた。心臓病で倒れたのち1956年に大差で再選されたが経済の停滞、人種問題の爆発、さらに当時のソ連に人工衛星打上げで先を越され、U2型機事件によるパリ首脳会談の流産、1960年安保闘争による日本訪問中止などのトラブルにみまわれた。1961年1月「軍産複合体」の危険を警告する退任演説のあとケネディに後を譲った。1969年3月28日死去。