地球軌道のすぐ内側を回る太陽系の惑星で、地球にもっとも接近する惑星である。
中米に栄えたマヤ文明では、太陽や月に次いで惑星、とくに金星の運行に大きな関心が払われていた。金星が特別視されていたのはその明るさのせいかもしれない。月も灯火もない暗夜では、金星の光で影ができるほどである。金星は、ときに1等星の明るさの200倍以上になり、見える方向がわかれば、昼間の青空に肉眼でみつけられるほどである。
金星は大きさや質量が地球と似ていることから、地球の双子星ともいわれたほどで、直径は地球の0.949倍で、赤道半径は6052キロメートル、質量は地球の0.815倍である。地球軌道に対する軌道の傾きは3.4度と小さく、軌道の離心率も0.007しかない。金星の太陽からの平均距離は0.7233天文単位(1億0820万キロメートル)、公転周期は0.615年(地球の日数で225日)、近日点と遠日点での太陽からの距離の差は146万キロメートルである。
ガリレオ・ガリレイは、1610年に自作望遠鏡による観測から、金星の満ち欠けが天動説では説明できない変化であることを確認したが、このことが地動説を支持する根拠の一つとなった。ヨハネス・ケプラーは、1631年12月7日(彼が死んだ年の翌年)の金星の太陽面通過を予報し、次に起こるのは1761年であると計算で求めていた。イギリスのジェレマイア・ホロックスJeremiah Horrocks(1618―1641)は、ケプラーの惑星運動理論の軌道を改良し、より正確な計算を行い、1639年12月4日(当時イギリスで使われていたユリウス暦では11月24日)に金星が太陽面を通過することを予測した。当日、彼と友人のウィリアム・クラブトリーWilliam Crabtree(1610―1644)は、太陽面を移動する金星のシルエットを史上初めて観測することに成功した。
17世紀当時、各惑星相互の軌道サイズの比は観測から求められていたが、実際の長さはどれくらいなのかがわかっていなかった。イギリスのエドモンド・ハリーは、金星の太陽面通過の観測から地球―太陽間距離を求めることに関心を向けた。地球上の大きく離れた2地点から観測すれば、金星位置がわずかにずれて観測される。このことから、金星や太陽までの距離を計算で求めることができるという詳しい論文を著した(1716)。
18~19世紀にかけては、国の威信をかけた金星の太陽面通過観測隊が世界各地に送られた。イギリスのキャプテン・クックの最初の航海では、1769年6月の金星の太陽面通過の観測がタヒチで行われた。1874年(明治7)12月9日、日本などを含むアジアで観測可能ということから、日本にもアメリカ、フランス、メキシコから観測隊がやってきた。観測地となった長崎、神戸、横浜には記念碑が建てられている(2022年には日本天文学会による日本天文遺産に認定)。
20世紀になると、地球接近小惑星の観測から正確に太陽系の大きさを求めることできるようになり、第二次世界大戦後には、地球から金星へのレーダー観測により高精度の距離測定が可能になった。
一方、1761年の金星の太陽面通過時、背景の太陽光が金星大気を通り屈折するため、金星大気が光のリングのように見える現象がロシアのミハイル・ロモノーソフなどによって観測された。とくにロモノーソフはスケッチを含む観測結果を早期に発表し、金星大気による屈折という説明を添えていた。
金星は一面雲に覆われているため、自転周期が明らかになったのは20世紀に入ってからだった。1920年代の紫外線フィルターを使った観測で見られたという暗い模様を追跡するため、観測に乗り出したアマチュア天文家がいた。フランス生まれのシャルル・ボワイエCharles Boyer(1911―1989)である。彼は長らくアフリカで司法の仕事についていた。フランスのピク・デュ・ミディ天文台と連絡を取り合い、自作望遠鏡で金星の撮影を始めようとするが、フィルターは青紫色フィルターで代用した。1957年9月の観測から彼は、薄暗い模様が4日ごとに元の位置に戻ってくることに気づいた。
1964年パリ天文台による分光観測から、赤道部分の速度は公転の向きとは逆で秒速100メートルということがわかり、それはボワイエの観測結果を支持するものだった。1960年代に入ると、地上から金星へのレーダー観測ができるようになり、1964年には金星の固体部分は250日程度で逆向きの自転をしていることもわかり、のちに約243日周期であることが明らかになった(ちなみに公転周期は約225日)。上層大気は地面の自転周期の約60倍もの速さで回転していることになる。
ボワイエの結論は、とくにフランス以外の国々では懐疑的にみられた。上層大気の4日周期が広く認められるのは、1970年代の探査機による観測結果が得られるようになってからである。この異様な大気の高速回転は超回転(スーパーローテーション)とよばれ、大きな謎となった。
1962年打ち上げのアメリカの探査機マリナー2号が金星接近時に行ったマイクロ波放射計による観測から、地表は約500℃という高温であることが判明。1967年に打ち上げられたソ連の探査機ベネラ4号の降下カプセルからの測定で、金星大気の主成分が二酸化炭素であることが明らかになった。1970年打ち上げのベネラ7号により表面温度は475℃(その後の探査を含め、平均表面温度約460℃)、気圧は92気圧と求められた。1974年には、航空機からの赤外スペクトル観測で金星の雲の主成分が硫酸であることがわかった。高度45~70キロメートル付近には濃硫酸を主成分とする雲が浮かび金星全体を覆っているため、太陽光の78%を反射し金星の輝きを生み出している。
1978年打ち上げのアメリカのパイオニア・ビーナス探査機(周回機と大気圏突入機に分けての打ち上げ)の周回機ではレーダー観測が行われ、地形データが得られた。大小の突入機は大気のデータを取得した。1989年にはスペースシャトルからマゼラン探査機が出発し、1990年に金星周回軌道に入り、軌道上からレーダー観測を行い詳細な地形データを得た。プレートテクトニクスの痕跡(こんせき)はみつからず、表面の85%以上が固まった溶岩流で覆われていた。現在も火山活動があるのかは不明。
2005年にESA(イーサ)(ヨーロッパ宇宙機関)が打ち上げたビーナス・エクスプレスは、金星周回軌道から金星大気とプラズマ環境の観測を行った。2010年(平成22)5月打ち上げの日本の探査機「あかつき」は、同年12月に金星周回軌道に入るはずだったが、十分なブレーキをかけられぬままエンジン停止。ふたたび金星に接近した2015年12月には姿勢制御エンジンだけで金星周回軌道投入に成功。金星大気についての理解が進もうとしている。