古代、大陸より渡来した、仮面を使用する無言野外劇。『日本書紀』によれば、推古(すいこ)天皇20年(612)に百済(くだら)から帰化した味摩之(みまし)が呉(くれ)の国に学んで伎楽儛(くれのうたまい)を習得していたので、朝廷は大和(やまと)(奈良県)の桜井に味摩之を住まわせて、少年たちを集め、この舞を伝習させたとある。このように伎楽は中国の呉国より伝来したもので呉楽(くれがく)ともいわれるが、使用する仮面(伎楽面)の相貌(そうぼう)にいわゆる胡人(こひと)型といわれるアーリア系人種の特徴が著しい点から、その源流は西域(せいいき)方面ではないかと推定されている。伎楽という名称は、三宝供養(さんぽうくよう)の寺院楽として用いるために仏教経典にちなんだ日本での呼称であるといわれる。伎楽は大和国橘寺(たちばなでら)、山城(やましろ)国(京都府)太秦寺(うずまさでら)(広隆寺)、摂津(せっつ)国(大阪府)四天王寺にも置かれ、仏教の興隆とともにますます盛んとなり、752年(天平勝宝4)の東大寺大仏開眼供養(だいぶつかいげんくよう)にも盛大に行われた。
伎楽の内容については1233年(天福1)10月成立の『教訓抄』巻4の記載をほとんど唯一の手掛りとして知るほかはないが、これに、法隆寺、西大寺(さいだいじ)、観世音寺(かんぜおんじ)などの資財帳にみえる伎楽面の名称を照合すると、その大要が把握できる。伎楽は行道(ぎょうどう)に演技の伴った屋外仮面芸能であるが、行道の先頭には露払いの役をする治道(ちどう)が立ったであろうといわれている。次に師子(しし)、師子児(ししこ)と続く。師子には悪魔払いの意味があり、今日四天王寺舞楽の「獅子(しし)」や各地の二人立ちの獅子舞にその名残(なごり)をとどめている。そのあとに呉公(ごこう)、金剛(こんごう)、迦楼羅(かるら)、婆羅門(ばらもん)、崑崙(こんろん)、呉女(ごじょ)、力士(りきし)、大孤父(たいこふ)、大孤児(たいこじ)、酔古王(すいこおう)、酔古従(すいこじゅう)などが続く。『教訓抄』によると、楽器は笛、三鼓(つづみ)、銅拍子(どうびょうし)。呉公は扇を持つとあるが、これには笛にあわせて舞の所作が伴ったであろうといわれている。金剛に続く迦楼羅は「ケラハミ」と称され、毒蛇を食うさまを演じたようすである。婆羅門は「ムツキアラヒ」とされているので、高徳の人物が襁褓(むつき)を洗うさまを滑稽(こっけい)に演じた、風刺性の強い演技であったと思われる。崑崙は呉女や力士との共演で、呉女に懸想(けそう)し卑猥(ひわい)なふるまいをするが、力士が出てきて懲らしめるという筋書き。大孤父は老人で、大孤児2人を伴い仏前参詣(さんけい)を示す演技をする。最後の酔古王は、従者である多くの酔古従を従え、その名称からして酒に酔ったまねをしたらしい。『教訓抄』の記述がどれだけ伝来当初の伎楽の姿を伝えているかは疑問であるが、伎楽のこのような卑俗的な滑稽さが、寺院の楽でありながら、舞楽の隆盛に押されて平安中期以降しだいに衰微していった大きな原因であった。しかし、その滑稽さが平安末から鎌倉時代初めにかけての猿楽(さるがく)に影響を与えたものと思われる。
伎楽面は上述の治道から酔古従まで14種あることが知られている。大多数は奈良時代に属し、法隆寺31面(東京国立博物館蔵)、正倉院164面、東大寺33面、そのほか、春日(かすが)大社などの社寺にも分散して伝えられた。法隆寺の面は味摩之の将来と伝え、正倉院のものは大仏開眼供養の伎楽に使用したものといわれる。舞楽面・能面よりも大型で、後頭部から深くかぶり、後頭部の下半に布をつけて覆うようにした形式をもつ。素材にはクスノキ、キリなど木彫製のものと乾漆製のものとがあり、彩色にも能面とは違った華麗さがあるが、大型で目・鼻・口から外がよく見えるようになっているのは、伎楽が野外芸能であったためといわれる。また、役の名、作者、年月日などの銘が記されているものもあり、芸能史、仮面史にとっての貴重な資料になっている。