インダストリアル・デザイナー。名の通称は、そうり。東京の原宿で、民芸運動の創始者で思想家の柳宗悦(やなぎむねよし)と声楽家の柳兼子(やなぎかねこ)(1892―1984)の長男として誕生。1935年(昭和10)、東京美術学校(現、東京芸術大学)油画科に入学。在学中にル・コルビュジエを知る。卒業後は、日本輸出工芸連合会で働き始め、1940年に輸出工芸指導のために来日したシャルロット・ペリアンCharlotte Perriand(1903―1999)の助手として日本視察に同行する。1942年、坂倉準三の建築研究所に入所。翌1943年、陸軍報道部宣伝班員としてフィリピンへ出征し、1946年に帰還する。
第二次世界大戦後、早々に工業デザインの研究を始め、無地の硬質陶器シリーズを発表。1950年には目黒区駒場に柳インダストリアルデザイン研究所を開設する。1952年、第1回新日本工業デザインコンクールに出品した「レコードプレイヤー」(日本コロムビア製作)によって最優秀賞を受賞。この賞金を元に1953年に財団法人柳工業デザイン研究会を設立。また、仲間たちと日本インダストリアルデザイナー協会(JIDA)を設立(1952)した。1954年、前川国男の誘いを受けて「MIDビル」(新宿区本塩町(ほんしおちょう))へと研究会を移転し、以来ここを活動の拠点とした。1956年、第1回柳工業デザイン研究会展を開催し、「バタフライスツール」(天童木工製作)や「エレファントスツール」(コトブキ製作)などの名作を発表。1957年、第11回ミラノ・トリエンナーレに招待出品してインダストリアル・デザイン金賞を受賞、その名が世界的に知られるようになる。1960年、世界デザイン会議が日本で開催されると、その中心メンバーとして活躍した。
その後のデザイン活動は目覚ましく、家具や食器、カトラリーなどの生活用品をはじめ、東名高速道路の東京料金所防音壁や関越自動車トンネル坑口などの大型公共構造物、1964年の夏季オリンピック東京大会のトーチ・ホルダーや1972年の冬季オリンピック札幌大会の聖火台、トーチ・ホルダー、中井窯や出西(しゅっさい)窯のような民芸運動ゆかりの窯元を指導してつくられた陶器のディレクションシリーズなど広範囲に及ぶ。なお、それらに一貫するデザインの特徴は、模型による「手で作りながら考える」制作手法にあり、使い手に長年愛される、用に即したものづくりを実践していった。1980年、イタリアのミラノにて「デザイナー・柳宗理・1950―1980年の作品」展を開催。1998年(平成10)には東京のセゾン美術館で「柳宗理のデザイン―戦後デザインのパイオニア」展が開催され、その仕事がふたたび国の内外で注目されていった。
デザイン活動の一方で、教育や民芸運動の分野にも力を尽くした。金沢美術工芸大学では1955年から約50年にわたってデザイン教育の現場に立ち、後進の育成にあたった。また、1977年に日本民芸館館長(2006年退任)、翌1978年には日本民芸協会会長に就任した。「よりよき暮らしへの奉仕」というデザイナーとしての矜持(きょうじ)が、民芸運動の理念と深く結びつくこととなる。なお、同館の現館長(2012年~ )であるプロダクト・デザイナーの深澤直人(ふかさわなおと)(1956― )は、柳宗理について「人間が心地よく美しいと感じるかたちを生み出せる人であった」と評している。
「バタフライスツール」は1958年に、ニューヨーク近代美術館(ニューヨーク)のパーマネントコレクションに選定され、さらにパリ装飾芸術美術館(パリ)、メトロポリタン美術館(ニューヨーク)、ビクトリア&アルバート美術館(ロンドン)など数多くの美術館に所蔵されている。また、金沢美術工芸大学が2014年(平成26)に開設した柳宗理記念デザイン研究所には、多くの作品やデザイン関係資料が保管・展示されている。
1981年に紫綬褒章(しじゅほうしょう)を受章。1987年、旭日小綬章を受章。2002年には文化功労者として顕彰される。東京都内の病院で死去。享年96であった。