桃山後期から江戸初期を代表する画家。浅井長政(あさいながまさ)の家臣で、自らも画(え)をよくした木村永光(ながみつ)の子として、近江国(おうみのくに)(滋賀県)に生まれる。幼名を平三、のちに光頼(みつより)。浅井家の滅亡とともに父永光が豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕えるや彼も秀吉の小姓となり、その側近に侍した。のち秀吉の計らいで狩野永徳の門に入り、狩野姓を授けられ、修理亮(しゅりのすけ)と称す。1588年(天正16)秀吉の命によって、病に倒れた師永徳にかわって東福寺法堂(はっとう)の天井画『蟠竜図(ばんりゅうず)』を完成、一時に画名を高める。師没後の1594年(文禄3)伏見城(ふしみじょう)の障壁画(しょうへきが)を制作、ついで1600年(慶長5)秀吉再建の四天王寺に『聖徳太子絵伝』を描く。1615年、それまでとりわけ恩顧を被った豊臣家の滅亡は山楽に一大転機をもたらし、一時期徳川方の詮索(せんさく)を逃れて男山八幡宮(おとこやまはちまんぐう)の松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)のもとに身を隠したが、やがて許され、1619年(元和5)徳川秀忠(とくがわひでただ)の息女東福門院の入内(じゅだい)にあたり造営された宸殿(しんでん)の襖絵(ふすまえ)を制作、ついで秀忠によって再度復興された四天王寺絵堂に『聖徳太子絵伝』を描いた。大坂城本丸御殿(1624)や二条城行幸殿(1626)などの障壁画制作には、探幽をはじめとする江戸の狩野派画人とともに参加し、さらに1631年(寛永8)の妙心寺天球院客殿障壁画も一部彼の手にかかるとみられ、最晩年に至るまで旺盛(おうせい)な制作活動に従った。彼の絵は、師永徳の豪壮な画風を受け継ぎながら、さらにいっそうの写実性と装飾性を深めたもので、この二つの傾向の微妙な調和のうちに成立している。その潤いある穏やかで豊かな画面は、桃山芸術最後の精華といっても過言でない。ほかに、大覚寺宸殿(しんでん)・正宸殿襖絵、『鷙鳥図屏風(しちょうずびょうぶ)』『車争図屏風』(東京国立博物館)、『南蛮図屏風』(東京・サントリー美術館)などがある。
山楽の画系はこの後も京都の地にあって、山雪、永納(えいのう)と受け継がれ、独自の画風を保持したため、江戸に下った探幽を筆頭とする江戸狩野派に対し、京狩野派とよばれ、幕末まで活躍した。