歌人、医師。別号に童馬山房主人。明治15年5月14日(戸籍面では7月27日)、山形県南村山郡堀田村大字金瓶(かなかめ)(現上山(かみのやま)市金瓶)に守谷(もりや)伝右衛門の三男として生まれる。家は農家。隣家に宝泉寺があり、住職の佐原窿応(りゅうおう)に習字、漢文を習った。1896年(明治29)上山小学校高等科を卒業し、上京して、浅草に医院を営む斎藤紀一方に寄寓(きぐう)、開成中学を経て1902年(明治35)9月旧制一高理科三部に入学した。一高在学中、04年の暮れ、神田の貸本屋で正岡子規(しき)の『竹の里歌』を借りて読み、作歌に志した。子規系の歌誌『馬酔木(あしび)』を購読し、『読売新聞』に投稿しながら一高卒業、東京帝国大学医科大学に進んだ。06年2月『馬酔木』に短歌5首が載り、それを機に3月、初めて伊藤左千夫(さちお)を訪ねて入門した。左千夫は茂吉のこのころの空想的な傾向を同門の堀内卓と対比して「堀内は写実派、斎藤は理想派」と評したが、それは茂吉の特異な才能を認めた発言であった。08年『馬酔木』にかわり『アララギ』が創刊されるに及んで、茂吉はその推進者となり習作期を脱する。09年1月、初めて観潮楼歌会に出席した。10年大学を卒業、精神科を専攻し、付属病院(東京府巣鴨(すがも)病院)に勤務。これより先、05年7月、紀一の次女てる子(11歳)の婿養子として斎藤家に入籍した。
大学卒業後の巣鴨病院時代、茂吉は島木赤彦、古泉千樫(こいずみちかし)、中村憲吉らと組み、また前田夕暮(ゆうぐれ)、北原白秋(はくしゅう)らと交わりながら新風を目ざし、その動揺は左千夫との間に激しい対立を生じるに至るが、1913年(大正2)7月左千夫は急逝する。この年、「おひろ」「死にたまふ母」の大作がなり、続く左千夫の死までを歌った歌集『赤光(しゃっこう)』(1913)は一躍茂吉の名を高からしめた。このころ評論活動もまた盛んで、のち『童馬漫語(どうばまんご)』(1919)や『短歌私鈔(ししょう)』(1916)に収められた評論や研究を発表した。第二歌集『あらたま』(1921)は『赤光』に続くこの巣鴨時代のもので、象徴的な境地を深め、寂寥(せきりょう)の気分が一貫している。14年4月てる子と結婚した。
1917年12月、長崎医学専門学校教授として長崎に移り、21年3月までそこに住んだ。この時期作歌は停滞するが、同時にそれは現実的・写実的な作風への転換の時期でもあった。20年1月喀血(かっけつ)があって、10月まで療養した。「あまつ日は松の木原のひまもりてつひに寂しき蘚苔(こけ)を照せり」。この時期の歌集に『つゆじも』(1946)があり、また『短歌に於(お)ける写生の説』(1920~21)を発表し、「実相に観入して自然・自己一元の生を写す」という規定に至りついた。このあと、21年10月から丸3年間にわたってウィーンおよびミュンヘンにおいて医学研究に従い、帰路、洋上で養父の青山脳病院全焼の知らせを受け、25年1月、焼け跡の自宅に戻った。留学期間の作は『遠遊』(1947)、『遍歴』(1948)にまとめられた。
帰国後病院の復興に努め、1927年(昭和2)院長となる。『ともしび』(1950)はこの時期の歌集である。「かへり来し家にあかつきのちやぶ台に火燄(ほのほ)の香(か)する沢庵(たくあん)を食(は)む」。33年私生活上の事件のため妻と別居、茂吉自身にも永井ふさ子との間に秘められた恋愛があり、そういう人間的苦悩のうちに『白桃(しろもも)』(1942)、『暁紅(ぎょうこう)』『寒雲(かんうん)』(ともに1940)の一連の高峰をなす歌集が生まれた。
第二次世界大戦下、茂吉は戦意高揚の戦争詠を盛んに発表し、1945年(昭和20)郷里金瓶に疎開、そこで終戦を迎えた。戦争の敗北は茂吉に深刻な打撃を与え、『小園(しょうえん)』(1949)はその時期の沈痛な作品を収める。46年山形県大石田町に移り、肋膜(ろくまく)炎にかかり、癒(い)えてからは最上(もがみ)川をはじめ近在の散策に楽しみをみいだした。この大石田在住2年間の作品は『白き山』(1949)に結実した。47年11月東京・代田(だいだ)の自宅に帰り、最終歌集『つきかげ』(1954)の時代が始まるが、この歌集は初期の『赤光』に還(かえ)ったような意欲的なところがあり、しかも作者の心身の衰弱がその意図に応じきれないところがあって、一種混沌(こんとん)とした不思議な印象を与える。
茂吉は短歌のほか『念珠集』(1930)、『童馬山房夜話』(1944~46)などの随筆、『歌壇夜叉(やしゃ)語』(1951)をはじめとする論争、『柿本人麿(かきのもとのひとまろ)』(1934~40)の研究など散文の領域における業績も大きい。1937年芸術院会員、51年文化勲章受章。昭和28年2月25日心臓喘息(ぜんそく)のため新宿区大京町の自宅で死去。戒名は自選により「赤光院仁誉遊阿暁寂清居士(こじ)」。青山墓地の墓碑は自筆の「茂吉之墓」である。生地の上山市に斎藤茂吉記念館がある。長男茂太(しげた)(1916―2006)は精神科医、次男北杜夫(きたもりお)は作家として知られる。