明治~昭和期の仏教哲学者。その名はDaisetz T. Suzukiとして、国内よりもむしろ国外に広く知られる。明治3年10月18日、金沢市本多町に、父良準(1822―1876)、母増(1830―1890)の4男1女の四男として生まれる。本名は貞太郎。6歳のときに医師であった父を失う。第四高等中学校本科に進学したが中退し、小学校の英語教師、訓導となって家計を助けた。21歳のとき上京して東京専門学校(早稲田(わせだ)大学の前身)に入学し英文学を修めたが、かねて参禅を志したことから鎌倉・円覚(えんがく)寺の今北洪川(いまきたこうせん)に師事し、洪川の寂後は釈宗演(しゃくそうえん)につき、重ねて円覚寺に参禅を続けた。大拙の名はこの宗演から受けた居士(こじ)号である。1892年(明治25)9月、東京帝国大学文科大学選科に入学、1895年9月同科修了。選科への入学は同郷の学友西田幾多郎(にしだきたろう)の勧誘による。1897年、宗演の推薦により渡米、イリノイ州ラサルのオープン・コート出版社The Open Court Publishing Companyの編集員として勤めながら勉学に励み、1900年(明治33)30歳のとき、馬鳴(めみょう)(アシュバゴーシャ)の『大乗起信論(だいじょうきしんろん)』の訳注、すなわち『Açvaghosha's Discourse on the Awakening of Faith in the Mahayana』をオープン・コート出版社から、続けて1907年に『Outlines of Mahayana Buddhism』(『大乗仏教概論』)をロンドンのルザック社Luzac and Companyから、翌1908年にオープン・コート出版社からまた刊行するに及んで、大拙の名は新進の仏教学者として、一躍して欧米に知られた。在米12年、39歳のとき帰国、この年10月東京帝国大学文科大学講師、ついで学習院講師となり、のち学習院教授に昇進。41歳のときアメリカ人のビアトリース・レーンBeatrice Erskine-Lane(1878―1939)と結婚、1921年(大正10)3月、真宗大谷大学教授に転じた。昭和41年7月12日、96歳の生涯を閉じるまで旺盛(おうせい)な研究活動を続け、英文の著書30余冊、和文の著書120余冊を残したことは有名。英文の名著に『Zen Buddhism and Its Influence on Japanese Culture』(『禅と日本文化』。のちに『Zen and Japanese Culture』として改訂)、『Essays in Zen Buddhism』3巻など数々があり、禅をZENとして世界に定着させた功績は大きい。また晩年の労作に親鸞(しんらん)の『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の英訳がある。第二次世界大戦後10年間はまたアメリカに滞在し、コロンビア大学、ハーバード大学にて仏教思想を講じた。1945年(昭和20)鎌倉東慶寺内に財団法人松ヶ岡文庫を設立、1949年日本学士院会員となり、同年文化勲章を受けた。