江戸後期の浮世絵師。北川氏。通称勇助あるいは市太郎、画名は初め北川豊章(とよあき)、天明(てんめい)年間(1781~1789)初め歌麿(哥麿、歌麻呂)と改め、画姓も喜多川と表記するようになる。歌麿は当時「うたまる」と読まれた。狂歌をたしなみ、狂歌名を筆綾丸(ふでのあやまる)といった。幼少のときから絵を鳥山石燕(せきえん)に学び、1775年(安永4)刊の富本浄瑠璃正本(とみもとじょうるりしょうほん)『四十八手恋所訳(しじゅうはってこいのしょわけ)』の表紙絵が、浮世絵師としての処女作となる。錦絵(にしきえ)の初作は『芳沢(よしざわ)いろはのすしや娘おさと』で、1777年8月中村座上演の舞台に取材する役者絵であった。これら豊章時代の初期作には勝川春章(しゅんしょう)からの影響が濃厚に表れている。
天明(てんめい)年間に入って歌麿と改名して以後は、鳥居清長の画風を慕い、美人画家として成長していく。また、新興の版元蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)(蔦重)に才能を認められ、錦絵ばかりでなく、豪華な多色摺(ず)りの狂歌絵本を次々と蔦屋から発表、写実的な作風に磨きをかけた。『画本虫撰(えほんむしえらみ)』(1788刊)、『潮干(しおひ)のつと』『百千鳥(ももちどり)』(以上1789、1790刊)の三部作は、虫、貝、鳥を写生風に描いた色摺りの挿絵をもつ歌麿狂歌絵本の代表作として知られる。
錦絵における美人画の作画は、清長の群像表現を模倣することから始まるが、やがて対象に近接して、女性の表情の微細な変化を写し留める「大首絵」という形式を創案、寛政(かんせい)年間(1789~1801)初めには独自な作風を確立させた。「雲母摺(きらずり)」や「黄つぶし」の地に女性の柔肌(やわはだ)を美しく浮かび出させるために、ときには朱線を用い、あるいは輪郭線を省略するなど、独創的な表現法をさまざまにくふうした。また、寛政の改革のさなかにあって、彫りの精緻(せいち)や色摺りの度数が制限されたのをかえって逆用し、わずかな色数と限られた線描によって、版画ならではの明快率直な美的効果を実現したものであった。1792、1793年(寛政4、5)ごろの美人大首絵の連作『歌撰恋之部(かせんこいのぶ)』『婦人相学十躰(ふじんそうがくじったい)』などには、各階層にわたる婦女の心理的な深みをも伝える顔貌(がんぼう)表現が尽くされており、また続く1794、1795年の『高名美人六家撰(こうめいびじんろっかせん)』『当時全盛美人揃(とうじぜんせいびじんぞろえ)』などでは、全盛の遊女や茶屋女など実在の美女をモデルに、類型的表現のなかで各人の個性的容貌を微妙に描き分けるなど、単なる美人画家にとどまらぬ肖像画家としての優れた資質をも発揮している。さらに同じころの全身像による連作『青楼十二時(せいろうじゅうにとき)』では、新吉原遊廓(ゆうかく)における遊女の1日の生活模様を活写して、フランスの作家エドモン・ゴンクールが「青楼画家」Le peintre des maisons vertesと名づけた真価を発揮している。
歌麿の雲母摺大首絵は当初、版元蔦屋重三郎の助言と後援のもとに企画・発表されたものと思われ、その秀作は多く蔦屋から版行されている。歌麿芸術の開花に尽くした蔦重の功績は甚だ大きいが、事実、1797年の蔦重の死を境として、歌麿の作品の質に変化がおこってくる。他の版元からの依頼が増して、多作・乱作が作品の質を低下させた気味もあるが、よき助言者であった蔦重好みの古典的格調を失った結果とも思われる。肉感的描写が進み、デカダンな退廃美を表して、その後の幕末美人画の傾向をすでに確かに予言しているところは、浮世絵界随一の美人画家を自負した歌麿らしい晩年であった。1804年(文化1)『太閤記(たいこうき)』関係の錦絵が幕府にとがめられ、入牢(にゅうろう)、手鎖(てぐさり)の刑を受け、文化(ぶんか)3年9月20日、失意のうちに没した。法名は釈円了教信士、浅草の専光寺(現在は世田谷区に移転)に葬られた。代表作としては前述のほかに、錦絵揃物(そろいもの)に『娘日時計』『北国五色墨(ほっこくごしきずみ)』『教訓親の目鑑(めがね)』、艶本(えんぽん)として『歌まくら』(1788刊)、肉筆画に『更衣美人』(東京・出光(いでみつ)美術館)などが知られる。
門人に、2代歌麿、月麿(菊麿)、藤麿らがいるが、いずれも亜流画家に終わっている。
[小林 忠]