ローマ・カトリック教会の首長、バチカン市国元首。かつて報道などで「法王」ともよばれていたが、2019年(令和1)11月20日、日本政府は、教皇フランシスコ訪日にあわせて「教皇」という呼称を使用すると発表した。教皇の帯びる諸種の称号のうち、「ローマ司教」「イエス・キリストの代理者」「使徒の頭(かしら)の後継者」「全カトリック教会の首長」の四つが、教皇権の起源と本質を物語る。すなわち、教会の創立者キリストは「使徒の頭」ペトロ(ペテロ、ペトルス)を自分の代理者(「キリストの代理者」)とすることにより、自らが世を去ったのち教会を導く権能を与え、この権能は、ペトロのローマでの殉教ののち、その「後継者」である「ローマ司教」に代々受け継がれた。したがって、ローマ司教である教皇は、教会の歴史を通じて「全カトリック教会の首長」の座にあったとされる。教皇はまた「バチカン市国元首」としては一国の元首の地位にあり、いずれの国家にも属さない立場をとることにより、精神的独立性を確保している。
教皇の首位権の起源の根拠としては、イエスがシモン・ペトロに「あなたはペトロである。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。……わたしはあなたに天国の鍵(かぎ)を与えよう……」と約束した箇所(「マタイによる福音(ふくいん)書」16章18~19)、およびキリストがペトロに「わたしの羊を牧せよ」と3回繰り返し命じた箇所(「ヨハネによる福音書」21章16~17)があげられる。
教皇の選出は、前教皇没後15日以内に招集される教皇選出会議(コンクラーベconclave)において行われる。選挙権は80歳未満の枢機卿(すうききょう)のみが有し、3分の2以上の多数票を得た人物が就任を受諾すると、ただちに教皇の権限をもつことになる。教皇職は終身であるが、自発的に退くこともできる。2013年にベネディクト16世が高齢との理由で辞任している。
教皇の首位権は実際には教会史の流れのなかで徐々に全教会的に承認されるようになったのであるが、すでに3世紀にはローマ司教は「ペトロの座」Cathedra Petriと称されており、4世紀以降はローマ司教のみが「パパ」Papaとよばれるようになった。キリスト教ローマ帝国の時代には、教皇権が皇帝権の強い干渉を受ける面もみられたが、異端を排除しつつ教義を確立するという課題は、概して教皇側の主導権のもとに解決され、それを通じてローマの首位権が広く承認されるようになった。
中世になると、教皇権はビザンティン(東ローマ)側と疎遠になる一方で、新生フランク王権と結び付くことによって地歩を固め、宗教的、文化的、政治的指導者としての立場にたつようになった。とくに11~12世紀の「グレゴリウス改革」を通して、教皇は世俗権からの独立性を獲得するとともに、教会の中央統治機構としての教皇庁を整備し、全教会にわたる指導権を高めた。また、当時の封建的諸勢力の併存・対立の状況のなかで、場合によっては政治世界にも大きな影響力を及ぼした。そこに、インノケンティウス3世らに代表される中世教皇権の隆盛期が現出した。
中世末期に至ると、フランス王権を代表とする世俗権力の強大化によって教皇権は相対的に弱まり、さらにシスマ(教会大分裂、1378~1417)の結果、教皇首位権への信頼は揺らぎ、教皇よりも公会議全体の決定を上位に置く公会議首位説(公会議至上主義)が強まった。「教会の頭と肢体の改革」が叫ばれながらも、改革の実をあげられなかった教皇権は、ルターに始まる宗教改革に対しても当初は有効な措置を講ずることはできなかった。教皇の主導下に開かれたトリエント公会議(トレント公会議、1545~1563)による態勢の立て直し、また、とくに教皇に忠誠を誓うイエズス会の活躍などにより、カトリック側は失地回復に努めたが、ヨーロッパ・キリスト教世界を教皇のもとに再統合することはできなかった。
ヨーロッパの近代化が進むにしたがって、近代的政治体制、諸思想に直面して教会は守勢にたたされ、従来教皇が保持していた諸特権も否定されていった。19世紀後半の第一バチカン公会議(1869~1870)は、時代思潮に対してカトリック教会の立場を明確にし、また教皇の不可謬(ふかびゅう)性を宣言して、近代世界に対する積極的態度を示した。しかし、公会議中に、国家統一の完成を目ざすイタリアによりローマが占領され、教皇領のすべてを奪われた。教皇は伝統的に保持してきた世俗権力を失い、イタリア政府と対立した(いわゆる「ローマ問題」)。
世俗権力を失ったなかで、教皇はカトリック教会の首長として、宗教的な指導者の立場から、世界が直面する社会正義や平和問題について広く世界に訴えるようになった。レオ13世は1891年の回勅『レールム・ノバールム』で労働者の人間性尊重を強く訴え、また、帝国主義時代の激しい国際対立のなかで世界平和のための国際連盟の必要性を世界に先駆けて説いた。しかし、教皇の願いもむなしく、世界は二度の世界大戦に突入した。その間、1929年にはピウス11世がイタリア政府とラテラノ条約(ラテラン協定)を締結して「ローマ問題」を解決し、その結果としてバチカン市国が成立した。教皇はバチカン市国という一国の元首となり、カトリック教会の首長としての自由と独立を確保することになった。
20世紀の後半、教皇権は大きな転機を迎えた。ヨハネ23世(ヨハネス23世)は第二バチカン公会議(1962~1965)を招集して、「現代化」(アジョルナメント)による教会の自己革新に努める一方、回勅『マーテル・エト・マジストラ』において富の不均衡の克服を訴え、また回勅『パーチェム・イン・テリス(地上の平和)』においては、力の均衡によってではなく、対話を通しての相互信頼によって国際平和を実現すべきことを説いた。パウロ6世(パウルス6世)の国際連合での平和の演説(1965)も、その路線を継ぐものであった。1978年に教皇座についたヨハネ・パウロ2世(ヨハネス・パウルス2世)はさらに精力的に世界各地を歴訪、1981年(昭和56)2月には教皇として史上初めて日本を訪れ、広島で平和アピールを発するなど、全世界に平和と正義の実現を呼びかけた。とくにポーランド出身の教皇が、社会主義体制の母国を1979年に訪問して信教の自由や冷戦の克服を訴え、さらに1980年に成立したポーランド自主管理労組「連帯」への支持を表明したことは、その後の社会主義陣営の動揺と冷戦構造の崩壊の契機となった。1989年にはポーランドの「連帯」が政権を獲得し、ベルリンの壁が崩壊し、一連の東欧革命が起こったが、同年、ペレストロイカ(改革)を掲げるゴルバチョフはソ連共産党書記長として初めてバチカンを訪問して教皇と会談した。その2年後にソ連は崩壊した。教皇は1998年1月にはキューバを訪問して国家評議会議長カストロと会談し、「聖年」にあたる2000年3月には諸宗教・諸民族間の「ゆるしと和解」を旨とする聖地巡礼を行った。2001年5月にはキリスト教会が東西に分裂(1054)して以来、初めてギリシアを訪問した。
ヨハネ・パウロ2世は、26年を超える在位期間中に世界各国を104回にわたり精力的に歴訪し「空飛ぶ教皇」とよばれた。またヨハネ・パウロ2世は、全世界の4200人近くの司教のうち3500人以上を任命した。教皇就任時にバチカンと国交を結んでいた国・地域は90か国だったが、1989~1991年に東欧諸国と相次いで外交関係を開設または再開し、1994年にはイスラエルとも歴史的な外交関係樹立を達成するなど、172か国にまで伸ばした。26年間で列福(福者に認めること)した福者(聖人に次ぐ地位)は1338名、列聖した聖人は482名に上る。14の回勅、15の使徒的勧告、11の使徒憲章、45の使徒的書簡、28の自発教令、数百に及ぶメッセージと手紙を発表したが、回勅『新しい課題 教会と社会の百年をふりかえって』(1991)、回勅『いのちの福音』(1995)、回勅『キリスト者の一致』(1995)など、歴史的に重要な文書を数多く残している。またヨハネ・パウロ2世は1992年すでに、天文学者ガリレオ・ガリレイの異端裁判の判決(1632)を「教会の過ち」と認め、ガリレオに謝罪していたが、21世紀という新しい世紀への変わり目にあたり、新たな千年紀(ミレニアム)を「新しい衣で迎えたい」という決意から、カトリック教会の過去の所業を謝罪した。とくに2000年3月12日に行われた特別ミサでは、キリスト教会の分裂、改宗の強制、十字軍、異端審問、魔女裁判、反ユダヤ主義などのカトリック教会の過去の過ちを認め、神に赦(ゆる)しを請うた。
ヨハネ・パウロ2世は、2005年4月2日に逝去した。その後、2011年にベネディクト16世により福者に列福され、2014年にはフランシスコにより、福者ヨハネ23世とともに列聖された。
ヨハネ・パウロ2世の逝去に伴い実施されたコンクラーベにより、2005年4月19日にヨーゼフ・ラッツィンガーが新教皇に選ばれ、第265代教皇ベネディクト16世が誕生した。新教皇は、1927年4月16日、南ドイツ、オーストリアに近いマルクトル・アム・インで生まれ、1951年に司祭に叙階され、新進気鋭の神学教授として、ボン、ミュンスター、チュービンゲン、レーゲンスブルク大学で活躍した。第二バチカン公会議(1962~1965)にも、若くして顧問神学者として参加した。1977年にパウロ6世によりミュンヘン・フライジング大司教、そして枢機卿に任命され、さらにヨハネ・パウロ2世により教皇庁教理省長官、聖書委員会・国際神学委員会委員長に任命された。
ベネディクト16世は、深い神学的見識のもとに、世俗化に反対する姿勢を貫こうとした。ベネディクトという教皇名を選んだことにも、とくに教会のヨーロッパ的信仰の伝統を呼び覚ましたいという願いが込められていたといわれる。カトリック教会と芸術の関係を深め、トリエント・ミサ(第二バチカン公会議以前に行われていたラテン語によるミサの様式)を認めるなど、伝統回帰の志向が濃厚であったといわれる。
ベネディクト16世は、教皇庁教理省長官だった時代から、カトリック的伝統に対する現代世界からの挑戦への対処に追われていた。とくに生命問題、セクシュアリティ、同性愛については、伝統的なカトリックの見解を支持した。また、聖職者による性的虐待対策には厳しい姿勢を貫いた。
ベネディクト16世は、世界を飛び回る前任者よりも訪問国数は少なかった(計25回、25か国・地域)が、アフリカ大陸へは2度訪問した。そしてアフリカ人をバチカンの役職に任命し、アフリカ諸国とローマの結び付きを強めた。
ヨハネ・パウロ2世は四半世紀以上にわたり教会が外に向かう活動に奉仕したが、ベネディクト16世は、教会が何を信じ、何を教えているのか、内側に目を向けるための奉仕に尽力したといわれる。
しかしながらベネディクト16世は、2006年にレーゲンスブルク大学で行った講演中に、イスラム教の預言者ムハンマドが「悪と非人間的なもの」しかもたらさなかったとする14世紀のビザンティン皇帝のことばを引用したことから、メディアやイスラム教徒から批判を受けた。またカトリック教会だけを正統キリスト教と表現した教理聖省の文書の公表を承認したとしてプロテスタントと正教会など、他のキリスト教宗派からの批判も招いた。
2013年2月、高齢を理由に突然に辞意を表明。通常終身で務められていた教皇職を自ら離れ、世界を驚かせた。その後は、名誉教皇の称号のもとにバチカン内に居住し、2022年12月31日逝去した。
ベネディクト16世が2013年2月28日に辞任したため、実施されたコンクラーべにおいて、アルゼンチン人でイエズス会出身のホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿が選ばれ、第266代教皇フランシスコが誕生した。
フランシスコは、就任式では「弱者と環境を守ることが、死と破壊に勝利する方法である」「もっとも貧しく弱き者を抱擁する」と述べ、就任後間もない聖木曜日に行う「洗足式」も、ブエノス・アイレス大司教在任中に病院や刑務所で執り行っていたのと同様にローマの少年院で行い、「貧しさ」の福音的意味を強調する。教皇としての装飾品や住居・車も質素なものに変えている。
フランシスコは、2023年4月までに41回の海外司牧訪問を行っているが、訪問先は戦争・紛争や宗教対立、台風などの自然災害の起こった場所など、世界が抱える焦眉の問題の渦中に真っ直ぐに飛び込んで行く姿勢を示している。2014年には中東諸国、ヨルダン、パレスチナ自治区、イスラエルを歴訪し、コンスタンティノープル総主教とも会談している。2014年に訪問した韓国では、同年4月に起こったセウォル号沈没事故の遺族とも面会した。2019年には、イスラム教発祥の地であるアラビア半島のアラブ首長国連邦を訪問した。2019年の来日に際しても長崎と広島の平和公園を訪れ、戦争のない世界と核兵器廃止を訴えた。2022年には、カナダを訪問し、カトリック教会が運営していた寄宿学校がカナダ政府の先住民同化政策に協力し、先住民の子どもたちを虐待したことを謝罪した。前教皇が伝統と教義に回帰したのに対して、フランシスコは教会を民衆に親しまれる慈しみの場に変えたといわれる。
着座2周年を迎えた2015年3月13日に、フランシスコは「いつくしみの特別聖年」の開催を発表した。同年に公布された環境問題に関する回勅『ラウダート・シ』においても、人間は「人間・創造・神」の三項関係のかかわりのうちで「和解」を得て、成長していくべき者だとされ、「いつくしみと和解」において世界を慈しみと愛の場にしていくことがフランシスコのビジョンの根幹であるといわれる。
現代のカトリック教会を揺るがす最大の問題は、聖職者による児童への性的虐待である。これに関しては、前任のベネディクト16世が事実を認め、公に謝罪したことを継承し、フランシスコも断固たる対応をとろうとしている。しかしながら被害者団体や国連の子どもの権利委員会などは、カトリック教会は被害者の保護より教会の名誉と加害者の保護を優先しているとして、より厳正な対応を求めている。
また、バチカンと中国政府との間で長年もめていた司教の任命問題(中国は政府が承認する司教のみを公認だとしている)についても2018年に暫定合意に達したと発表された。フランシスコは合意の一環として、中国政府によって任命された司教7人を承認した。しかしながら、中国政府から公認されていない非合法の「地下教会」の信徒には中国政府からの弾圧が続いており、今後の教皇の対応が注目されている。
2020年以来の新型コロナウイルス感染症の流行と2022年ロシアのウクライナ侵攻についても、フランシスコは敏感に反応している。世界の人々に、コロナ禍の今こそ、これまでの自己中心的な価値観を見直し、兄弟姉妹的な分かち合いの世界を生み出そうとのメッセージを発し続けた。ロシアのウクライナ侵攻についても、フランシスコはロシア正教会のキリル1世Kirill Ⅰ(1946― )とオンラインで協議し、また捕虜交換の手配に水面下で協力した。「ロシアとウクライナをマリアの汚れなきみ心に奉献する祈り」を発表し、全世界のカトリック信徒たちに祈りを呼びかけている。