信書・文書などの送達にあたった者。語源は早く走る者、文使(ふみづかい)という意味である。通信手段は、権力と物資輸送の行われる所では不可欠であるから、いずれの時代にもあったはずである。
[藤村潤一郎]
古代には駅馬を利用した飛駅使(ひやくし)、駅使があり、公用の文書の輸送を行った。1日の行程は前者が160キロメートル以上、後者が128キロメートルである。平安時代には駅制が崩壊したので事情は明らかでない。鎌倉時代には鎌倉を中心に京都、九州などの間に伝馬による飛脚があった。京―鎌倉間の平均行程は、初め14~15日であったが、駅制の整備により3~4日に短縮された。また九州博多(はかた)から鎌倉への急便も弘安(こうあん)の役(1281)のおりには約12日で到達するようになった。室町幕府は積極的な駅制の整備を行わなかったので明らかでない。戦国大名は軍事上の目的から駅制を重視し、飛脚には城下町かその付近に住む手工業者が用いられ、伝馬継立(つぎたて)の印判手形がなくても通行した。
[藤村潤一郎]
近世には五街道、東廻(ひがしまわり)、西廻海運が整備され、各種の飛脚が存在した。しかしまだ不明の点が多い。
[藤村潤一郎]
まず幕府、大名の飛脚については、江戸が政治上の中心地であり、京、大坂、長崎、甲府、駿府(すんぷ)など主要都市との連絡のため、幕府の継(つぎ)飛脚が各宿に準備されていた。継飛脚は川留(かわどめ)に際しては最初に渡河し、江戸―大坂間では4~5日で通行している。
大名は国元と江戸屋敷、大坂蔵(くら)屋敷とを連絡するため飛脚が必要で、尾張(おわり)、紀州藩などの七里飛脚(七里ごとに小屋を置く)、加賀藩前田氏の江戸三度(月に三便)などが有名で、街道に独自の飛脚小屋を設けた場合もあるが、時期によっては町飛脚に請け負わせたこともある。脚夫は一般には足軽(あしがる)によるか、町飛脚によっている。藩領内では城下町と主要な地点を結ぶ定期的な飛脚があった。このほかに大名の参勤交代に関係して通日雇(とおしひやとい)がある。上下(じょうげ)とも称する。江戸、京都、伏見(ふしみ)、大坂のそれが有名で、江戸では六組(むくみ)飛脚とも称している。これらは通信にも従事しているが人宿(ひとやど)的性格が強く、人足は雲助に近い者もいたと考えられる。街道沿いの城下町には日雇頭があり、彼らも通日雇に従事していたようである。
[藤村潤一郎]
町飛脚については三都間のものが有名である。江戸の相仕(あいし)(取引相手の問屋)として京、大坂があり、三都の問屋が互いに連絡をとって営業を行った。これらはともに定期的な飛脚を意味する語を問屋名とし、江戸は定(じょう)飛脚、京は順番飛脚、大坂は三度飛脚と称した。また京飛脚など地名を冠した飛脚は、その地名地宛(あ)ての飛脚であることを意味している。なお三度飛脚とは、もともと幕府の京、大坂、駿府御番衆宛ての公用の飛脚(月三往復)だが、転じて定期的な町飛脚を意味することばにもなった。おそらく町飛脚が前者の仕事を請け負ったことなどから転化したのではあるまいか。
町飛脚の道中での運行を指示するのは宰領(さいりょう)(才領)である。彼らはおそらく都市の細民層に属し、道中での人足や馬持を採用したり、なだめすかしたりして仕事をし、街道筋では顔を知られた存在であった。人足と馬持は街道付近の農民の副業として行われ、一部には雲助もいたはずである。途中の飛脚宿は脇本陣(わきほんじん)や宿屋が兼ねている。人足はかならずしも宿継(しゅくつぎ)ではなく、とくに早飛脚の場合には、道中で遅れて請負刻限が迫ると、早駕籠(かご)を使用する例もある。瀬戸内海では陸路でなく早船を利用する場合があった。絹、生糸などの荷物は、宰領が率いて数頭の馬持が一種のキャラバンを組織している。
三都の飛脚問屋が全国を完全に連絡しているのではない。各都市中心に個別地との飛脚がある。これと都市の宿屋との関係は明らかでない。また農村と都市の連絡には定飛脚もあるが、特定の物資を運ぶ者が書状を請け負う可能性があり、書状を運ぶ者が買い物を頼まれる場合もある。都市内では町飛脚はチリンチリンの飛脚などと称せられ、鈴をつけている場合がある。彼らは長屋の住人であり、主要な顧客の一つに遊廓(ゆうかく)がある。駕籠(かご)かきなども書状を請け負っている。
明治期になり郵便が成立して書状は飛脚から離れたが、一部では荷物の運搬は飛脚によって行われた。
[藤村潤一郎]