かつて「離島」とは文字通り島を離れること、島から離れて他所へ行くことを意味した。そこに「離れた島」という新しい意味を加えたのは、1952年(昭和27)に成立した離島航路整備法と、それを土台あるいは母体に翌1953年に制定された離島振興法という二つの法律であったとされる。いずれにも「離島」という語が新しく付されている。すなわち、法的・行政的な意味として、本島あるいは本土から物理的・距離的に「離れた島」という新しい意味がこの用語に付与され、それがしだいに人口に膾炙(かいしゃ)していったと考えられる。しかし、島であれば本土から離れているのは当然なので、「離島」という新しい呼び方は、同義反復だともいえる。
第二次世界大戦敗戦後の国土縮小などで、海外植民地から多数の帰還者が発生した。離島はその人たちを受け入れ、数多くの島が結果的に統計上空前絶後となる人口を数えた。それに伴い山積した課題解決の必要性と、目の前の「離島」のありようとが、人々の意識に重なったのであろう。1953年に離島振興法が与野党を問わぬ広い賛同を得て議員立法として提案され可決されたのは、そうした事情を物語っている。離島の特殊さは、環海性・隔絶性・狭小性・後進性など、しばしば「島嶼性(とうしょせい)」と称される特性によりもたらされている。離島振興法では、これらを克服し、離島住民の生活水準を向上させることが目ざされたのだった。
離島振興法は当初、10年間の時限立法であった。しかし「離島振興」が短期間で成就するわけもなく、離島振興法はこれ以後7度の改正と期限延長を経て、2023年(令和5)春には第8次の同法が発効している。また、1953年の離島振興法成立当時には、日本の離島としては認められていなかった島々に関しても同じ趣旨の法律が整備されていった。順にあげれば、奄美(あまみ)群島振興開発特別措置法(1954)、小笠原諸島振興特別措置法(1969)、そして沖縄振興開発特別措置法(1971。2002年以降「沖縄振興特別措置法」と改称)である。これらは、名称に多少の違いがあるとはいえ、いずれも日本に返還後ただちに特別措置法を成立させたもので、基本的に離島振興を目的とした措置であり、すべてを合わせて実質的な離島振興法とよぶことができる。また離島振興法は、その後に続く各種の地域立法、たとえば半島振興法(1985)などの先駆けともいえ、日本の高度経済成長期を貫く地域開発・地域振興政策の象徴でもあった。こうしたことが、「離島」という用語が振興措置の対象であるとする意味づけを強調することになり、逆に元々の「島を離れる」という意味を希薄にさせたものと考えられる。
離島振興策は当初、産業基盤施設整備への投資が中心で、具体的には離島地域の公共事業の国庫補助率などをかさ上げするという形で港湾施設の整備改良などが実行された。その一方で、生活環境整備に投下される予算ははるかに少なく、すでに都市部への人口流出が始まっていた離島部の生活水準の向上にはあまり役に立たなかった。このミスマッチがさらなる離島の人口減少を生んだといえる。
ところで離島振興法を活用した島嶼性の克服は、予期した通りに進んだのだろうか? 公共事業で工場ができて島の人たちが数多く雇用される、などという場面があればわかりやすいが、通常、地域の振興といったことが目に見える形で表れるケースは少ない。しかし離島の場合、それがある。それは離島の架橋化(あるいは堤防道路の敷設など)、すなわち離島と本土とを直結させることである。架橋化は、離島の「隔絶性」を希薄にし、本土や本島と一体化させる。しかしそれは、形式的にせよ「離島」が離島でなくなるわけで、それが離島振興法の目ざすところだったとは思えない。このような離島が、日本には40ほど存在するが、そうした離島では等し並みに人口の流出が激しい(いわゆるストロー効果)。
皮肉なことに、離島振興法の成果は、離島を離島でなくすこととして表れてきたのである。