江戸時代の本草(ほんぞう)学者、戯作(げさく)者。讃岐(さぬき)の志度浦(香川県さぬき市)の生まれ。幼名を四万吉(よもきち)。伝次郎、嘉次郎といい、名は国倫(くにとも)または国棟(くにむね)。源内(または元内)は通称。字(あざな)は子彝(しい)、鳩溪と号した。戯作者としては風来山人、天竺(てんじく)浪人、悟道軒、桑津貧楽(くわづひんらく)など、浄瑠璃(じょうるり)作家としては福内鬼外を用いている。父は高松藩の蔵番白石茂左衛門良房で、兄は夭折(ようせつ)し、父の死で家を継ぎ姓を平賀と改めた。藩主松平頼恭(まつだいらよりたか)(1711―1771)にみいだされ長崎に遊学、藩の薬園の仕事にも携わるようになったが、1754年(宝暦4)、妹婿に家を譲り江戸に出て、本草学者田村藍水(たむららんすい)に師事、また林家に入塾し本格的に本草学を学んだ。
1757年、田村藍水とともに江戸・本郷(ほんごう)湯島で物産会を開き、以後、6年間に物産会を5回開催、とくに1762年(宝暦12年閏(うるう)4月10日)の物産会には全国30余国から1300余点に上る展示物を集め、盛況であった。源内はこの物産会の出品物のなかから重要なもの360種を選んで分類、解説し『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』(6巻)を翌1763年に出版した。このなかには、藍水の朝鮮人参(にんじん)栽培法や、『天工開物』からとった甘蔗(かんしょ)しぼりの図、また蘭書(らんしょ)から模写したサフランの図などの新しい知識も載せている。これらの活躍により、源内は新進の本草学者、物産学者として評価され、殖産興業、蘭癖の時流にのって多彩な活躍をしている。1764年(明和1)火浣布(かかんぷ)(石綿などでつくった不燃布)を製作、この火浣布について『火浣布説』を書き、1765年には『火浣布略説』を出版している。
また平線儀(水準儀)、タルモメイトル(温度計)などの理化学的な奇器の製作で人々の目をひき、紀伊(きい)、伊豆(いず)、秩父(ちちぶ)などでの薬物採集や鉱物などの物産調査など、幕府や高松藩の殖産策に尽力した。
一方、当時、新興の談義本の世界に進み、『風流志道軒伝』(5巻)、『根南志具佐(ねなしぐさ)(前編)』(5巻)などを書いて、よどんだ封建社会を風刺し、新作浄瑠璃『神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)』は1770年に上演され、この面でも好評であった。これらの文中には本草、物産学や医学的な知識、それにオランダ趣味などを入れて新しさを出している。
やがて田沼意次(たぬまおきつぐ)の知遇を得て二度目の長崎遊学をなし、殖産興業(彼のいう国益)のための陶器や織物の考案、それに鉱山関係の事業と、いっそう活動の場を広めていった。交友も中川淳庵(なかがわじゅんあん)、桂川甫三(かつらがわほさん)(1728―1783)、森島中良(もりしまなから)(万象亭(まんぞうてい))ら蘭学系の学者や、後藤梨春(ごとうりしゅん)(1696―1771)、平秩東作(へつつとうさく)、大田南畝(おおたなんぽ)(蜀山人)らの学者・文人と多方面にわたる。また秋田支藩角館(かくのだて)の小田野直武(おだのなおたけ)に洋画法を教え、秋田蘭画(らんが)誕生のきっかけを与えた。1774年(安永3)、秩父鉱山の経営に失敗し苦境に陥った。1776年、かつて長崎で入手したエレキテル(摩擦起電器)の修理に成功、模造品も製作し評判となった。これを「硝子(ガラス)を以(もっ)て天火を呼び病を治す」医療用具として大名富豪の前で実験したが、期待した後援者は得られず生活もすさみ、『放屁(ほうひ)論』をはじめとする『風流六部集』では「憤激(ヂレ)と自棄(ワザクレ)ないまぜの文章」で世間を揶揄(やゆ)している。
失意のうちに1779年(安永8)11月、人を殺傷して入牢(じゅろう)、12月18日獄中で世を去った。墓は東京都台東(たいとう)区橋場総泉寺跡にある。
[菊池俊彦]