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鎌倉中期の仏師。康縁、幸縁とも書き、但馬(たじま)法印とよばれ、運慶の第2子康運の子と伝える。1254年(建長6)湛慶(たんけい)のもとで小仏師として京都蓮華王院(れんげおういん)(三十三間堂)の再興本尊の造像にあたり、56年、東大寺講堂の千手観音造立のなかばで湛慶が死去すると、彼にかわってこれを完成させ、その後は慶派(七条仏所)の主宰者として活躍した。現存する康円のもっとも早い在銘作品としては1249年(建長1)に山城国深草郷(京都市伏見区深草)の地蔵院の像としてつくられたと思われる地蔵菩薩(ぼさつ)立像(ドイツ、ケルン市東亜美術館蔵)があり、また59年(正元1)の奈良白毫寺(びゃくごうじ)閻魔(えんま)十王像など、64年(文永1)奈良永久寺(廃寺)常有院の二天像、67年の同寺四天王眷属(けんぞく)像(東京国立博物館ほかに現存)、69年同寺十一面観音像、72年同寺不動八大童子像(東京・世田谷山(せたがやさん)観音寺に現存)、75年神護寺愛染(あいぜん)明王像、85年(弘安8)中村庸一郎蔵文殊(もんじゅ)五尊像(もと興福寺大乗院蔵と伝える)など、非常に多くの造像をしている。その活躍期が鎌倉彫刻の衰退しつつあったときで、彼の作も多少細技に走りすぎるきらいはあるが、なお伝統的な力強い写実性を残している。