鎌倉後期の女流歌人。『十六夜(いざよい)日記』の著者。藤原為家(ためいえ)の側室、冷泉為相(れいぜいためすけ)の生母。実父母は不明、養父は平度繁(のりしげ)。安嘉門院(あんかもんいん)に仕えて越前(えちぜん)、右衛門佐(うえもんのすけ)、四条などと称した。青春時代、ある貴人に失恋して出奔出家したことが日記『うたたねの記』で知られる。その後別の愛人との間に2子をもうけ、のち奈良法華寺(ほっけじ)、松尾(まつのお)の慶政(けいせい)上人のもとなどに身を寄せた。1252年(建長4。30歳ぐらいか)ごろ為家と相知り、歌道を助けるとともに定覚(じょうがく)、為相、為守(ためもり)の3子をあげ、嵯峨(さが)に同棲(どうせい)した。播磨(はりま)国細川庄(兵庫県三木市細川町)の伝領と和歌文書の所有権をめぐって異腹の長子為氏と争い、自らの本居「持明院の北林」に御子左家(みこひだりけ)伝来の文書を運び移すような事件も起こした。為家没後、1279年(弘安2)細川庄相続訴訟のため鎌倉下向。その記録が『十六夜日記』である。判決を待たず弘安(こうあん)6年4月8日没。帰京して没したか、鎌倉で客死したかは不明で、墓は京都西八条大通寺と鎌倉英勝寺との双方にある。
作品には『うたたねの記』『十六夜日記』のほか歌論書『夜の鶴(つる)』、願文『阿仏仮名諷誦(かなふじゅ)』、歌集『安嘉門院四条百首』『同五百首』があり、『続古今(しょくこきん)集』以下の勅撰(ちょくせん)集に入集(にっしゅう)する。『庭の訓(おしえ)』(一名『乳母(めのと)の文(ふみ)』)は真作か否か未詳。愛児為相を思うあまりのやや専横なふるまいは継子源承(げんしょう)の『源承和歌口伝(くでん)』に、為家室たるにふさわしい風雅で才気あふれる行動は『嵯峨のかよひ』(飛鳥井雅有(あすかいまさあり)著)に詳しい。古典に造詣(ぞうけい)深く、母性的で勝ち気な鎌倉女性の一典型である。