江戸後期の狂歌師、戯作者(げさくしゃ)、国学者。狂名宿屋飯盛(やどやのめしもり)、号六樹園(ろくじゅえん)、五老。江戸・小伝馬町(東京都中央区)で旅籠(はたご)を営み、通称は糠屋(ぬかや)七兵衛。父はかたわら浮世絵師石川豊信(とよのぶ)として名高かった。雅望は学を志して、津村淙庵(そうあん)に和学を、古屋昔陽(せきよう)に漢学を学んだが、狂歌流行とともに四方赤良(よものあから)(蜀山人(しょくさんじん))に入門してたちまち狂歌、狂文に頭角を現した。1784年(天明4)に狂歌本『大木(たいぼく)の生限(はえぎわ)』『太(ふとい)の根(ね)』を編したのを最初に、著述が多く、江戸狂歌の新進として鹿津部真顔(しかつべのまがお)と並称された。しかし1791年(寛政3)家業のことで無実の罪を得、江戸払いとなって近郊に10余年蟄居(ちっきょ)する非運に泣いたが、この間に国学の学殖を深めて、辞書『雅言集覧(がげんしゅうらん)』、注釈書『源注余滴』を著し、また狂文『都の手ぶり』『吾嬬那万里(あづまなまり)』や雅文体の読本(よみほん)『飛騨匠(ひだのたくみ)物語』などを残した。狂歌界は、飯盛の不在中は真顔が独占の形で俳諧歌(はいかいか)と称し、天明(てんめい)期(1781~1789)の狂歌を非難したのに対して、飯盛は1807、1808年(文化4、5)ごろ江戸復帰後の『狂歌百人一首』で反撃して機知と笑いを堅持すべしと主張し、いわゆる俳諧歌を圧倒した。
晩年は霊岸島新湊(しんみなと)町(東京都中央区)に住み、子息塵外楼清澄(じんがいろうきよずみ)とともに職業狂歌師として『万代狂歌集』をはじめ多数の狂歌本を著した。文政(ぶんせい)13年閏(うるう)3月24日没。
歌よみは下手こそよけれあめつちの動き出してはたまるものかは