子どもの世話、養育をすること。育児における「児」はとくに乳幼児をさすことが多いものの、「子育て」の「子」と同様に出生前の胎児や小学生・中学生などまで含め広くとらえられることもある。
育児は主として家庭において、親など保護者の手によって行われるが、その実現が不可能な場合には、里親や乳児院、児童養護施設、保育所などの児童福祉施設等において、専門家によって行われる。育児の目的は、心身ともに健康な子どもを育てることにある。
育児の方法や、子どもに対する親、地域、社会の人々の意識は時代によって変化してきた。子どもが小さな家族のなかで、両親とくに母親の丁寧な養育のもとに育てられるという現代の子育てのイメージは普遍的なものではない。歴史的には大きな「家」という経営体のなかで、非労働力である祖父母や、奉公人など他者に育てさせることも多かった。
江戸期(近世)の親子関係の特徴としては、しつけの対象としての「子どもの発見」があげられる。江戸期は多くの育児書が書かれた時代であり、「父親が子どもを育てた時代」であった。当時の育児書登場の背景には、子どもを育て教育することへの人々の関心の高まりとこれを求める読者層の存在があるが、育児書のおもな読み手は武士階層の父親であった。
江戸期において子育ての目的は、「家にとっての子ども」、とくに「跡継ぎとしての男子」の社会化であった。なかでももっとも意識的に子どもの教育を行っていた武士階層では、男子の養育は家長としての父親の役割であり、「家」の継承責任を子に伝える公的意味をもっていた。江戸期は、父親が社会化の担い手として「家にとっての子ども」を育てた時代といえる。
他方、当時の女性、とくに武士階層の女性に要請された育児は、夫や舅(しゅうと)の意思に従って子どもの世話にあたることであった。江戸期には女訓書が多数出版されたが、そこにはあるべき「妻」「嫁」の姿は書かれているものの、母としての役割に言及した徳目は存在しなかった。女性(母親)に期待されていたのは「家にとっての子ども」「跡継ぎとしての子ども」を産み、世話する役割であって、子どもの教育役割は父親の責務とされていたのである。
江戸期において、家名(屋号)・家産・家業の世代的伝達という家意識は庶民の間にも存在した。農民や町人の親たちは、子どもに幼少時から農作業や家業を通して経験知を伝達し、家業を継ぐために必要な知識や技術を習得させ、家産や家業の維持・存続を図っていった。また、家と村落共同体とが密接な関係をもっていた江戸期において、「家にとっての子ども」だけでなく「村にとっての子ども」を育てることも要請された。親が子どもに伝達した経験知は、家業を継ぐために必要な知識にとどまらず、隣近所や親族、寺社とのつきあい方、村のしきたりや冠婚葬祭時のふるまい方などであった。
明治期になると、急速な近代化・産業化の推進という国家戦略、家制度の再編、そして学制の登場により子育てをめぐる状況は大きく変容した。その特徴を要約すれば、第一に、子どもの主たる担い手が父親から母親に移行した点、第二に、公教育制度の登場と普及に伴い、家や共同体の教育機能が後方に退いた点があげられる。
明治期の教育の近代化は、1872年(明治5)の学制公布による公教育制度の創出から始まった。公教育の登場と普及は、近代の学校教育制度の枠内に子どもを囲い込み、「国家にとっての子ども」を養成する過程であった。そして、学校教育の補完的役割を担うものとして家庭教育が「発見」され、その担い手として母親が注目され始めた。
近代国家の建設とそれを支える国民の養成が国家的課題として浮上するなかで、家庭責任を担う女性の役割が重要な意味をもち、家事・育児・内助といった女性の家庭内役割が国家の発展に寄与するものと考えられるようになった。男性が生産活動や兵役に従事することによって近代国家の国民となる一方、女性は、その男性の活動を家庭において支え、次世代を育成することによって「間接的に」国民として統合されていった。それを合理化するのが「良妻賢母」のイデオロギーであった。
明治期の育児は、「国家―学校/家庭―子ども」というタテ社会の統制秩序のもとで、母親が学校教育の下請機関化した家庭教育の担い手として育児責任を担うようになる一方、父親はもっぱら一家の稼ぎ手として生産労働に従事し、子育てへの関与を徐々に後退させていった。
近代家族の特徴は、大正期における新中間層の家族においてみられるようになった。産業化と都市化が進展するなかで、大正期になると新中間層が本格的に登場した。新中間層とは、資本家でも労働者階級でもない中間の階級的位置を占める階層である。頭脳労働をし、俸給という所得形態を有し、中程度の生活水準にあることが特徴である。
新中間層の家族は、生産と消費の分離、主婦としての女性の役割の強化、子どもへの教育的配慮といった特徴をもつ。新中間層は、学校教育という制度化された社会化装置による学歴の獲得を通して、自らの社会的地位を再生産する手段を追求する必要があったため、子ども(とくに男子)の教育・進学への関心を高めていった。
このように新中間層の家族は、子どもに学力をつけることが家族の生活向上に結び付くと考え、性別役割分担を形成し、家事とともに育児は妻の領域となった。母親が育児を担うという規範は、当時の翻訳語である「母性」と結び付いた「母性愛」ということばとともに、女性自身にも受け入れられていく。またこの時期、避妊技術を用いた受胎調節、計画出産による産児制限が進み、少産少死の社会へと移行していった。その結果、子どもは「授かる」のではなく「つくる」との意識が強まっていく。
大正期の新中間層の子ども観やしつけ思想は、江戸期から明治期にかけてのそれらとはかなり異なっている。前近代における「家にとっての子ども」「村落共同体にとっての子ども」や明治期の「国力としての子ども」と家制度に裏付けられた「家にとっての子ども」観においては、跡継ぎとそれ以外の子、あるいは男女の地位の差別化が明確であり、子どもの社会化は、家父長制的イデオロギーに基づく地位統制的しつけが主流であった。これに対して、大正期の新中間層の育児には、子どもの本性や個性に沿った個人志向的な社会化の萌芽(ほうが)をみることができる。とはいえ、大正デモクラシーの風潮のなかで、近代的市民意識をもった知識層、新中間層の一部で受け入れられた子ども中心主義的教育観や個人志向的しつけ思想は、当時それ以上には広がらなかった。
他方、農村や漁村などでは子守を雇い、母親も生産労働に従事するなど、育児の方法は地域によって多様であった。病気やけがなどで子どもが命を落とす場合も多く、子どもの生存を左右する授乳や健康管理が重視された。また子どもの成長儀礼を通して、家族、親族だけでなく近隣の人々もかかわって子どもの成長を見守った。乳付(ちづ)け親や帯の親、取上げ親、名付け親、拾い親など多くの仮親(かりおや)をとる風習があったのは、共同育児の象徴といえる。
第二次世界大戦後の急速な復興と経済発展を可能にしたのは、技術革新による産業構造の変化と、いわゆる「日本的経営」の形成である。戦後大企業体制下の産業化は、生産労働を担う夫と、その労働力を再生産し、家庭責任を一身に担う妻という性別役割分業家族を基盤とするものであった。
戦後家族の変容は、子どもの価値や子育ての変化とも連動する。農業中心社会においては、子どもは労働力、家の跡継ぎ、親の老後保障としての意味をもっていた。しかし、雇用者比率の増大と都市的ライフスタイルの浸透のなかで、子どもの数を制限してひとりひとりの子どもにできるだけ質の高い教育を与え、将来有利な職業につかせたいとする親の意識が生まれた。そこから「少なく産んでよりよく育てる」育児戦略が広がりをみせた。
すでに明治の終わりから大正期に、新中間層や知識人の一部にみられた「産児制限」「産児調節」(=避妊)への関心が大衆化したのはこの時期である。避妊実行率が4割を超え、中絶と避妊の出生抑制効果の割合が逆転するのは、1960年代以降のことであった。
高度成長期の大衆消費時代を背景に、都市部を中心に形成されたサラリーマン家族が耐久消費財を買いそろえ、物質的豊かさを追求する家族モデルが一般化した。すなわち、「企業戦士」となることをいとわぬ父親と、時間と労力のすべてを子どもの教育に費やす「教育する母親」の組み合わせからなる近代家族の定着である。
高度成長期以降の1970年代には、子どもの養育責任は母親の手にまかされ、父親たちはケア役割を担えない・担わないという「父親不在」の育児状況が加速していく。専業主婦の孤立した育児と稼ぎ手男性の長時間労働は、メダルの表裏の関係にある。1970年代以降の育児雑誌の登場と普及は、核家族化、都市化の進行のなかで、かつての血縁・地縁といった人的ネットワークが希薄化したことや、仕事中心で子育てにかかわる余裕のない夫にも頼れず孤独な子育てに悩み、育児の知識や情報をメディアを通して入手しようとする母親たちが増え始めたことに起因している。そして1980年代になり、核家族化のなかで共働き家庭が増え、母親が家庭にいることを最良とする従来の近代家族モデルは少しずつ変容し始めた。
1985年(昭和60)の「女性差別撤廃条約」の批准を契機として、1986年に「男女雇用機会均等法」が施行され、1991年(平成3)には「育児休業法」が制定(1992年に施行)されるなど、1980年代後半から1990年代には「男女共同参画社会」への潮流が生まれた。そして母親同士や父親もともに子育てにかかわる共同育児への関心が高まりつつあった。その一方、1990年代は出生率の低下がいっそう進行し、1997年には人口動態統計史上初めて、年少人口(0~14歳未満)が高齢者人口(65歳以上)を下回るなど、少子化問題が日本の将来を左右する「社会問題」としてクローズアップされた。このような社会状況のもとで、政策課題としても「父親の育児参加」に注目が集まるようになった。少子化による「少なく大事に育てる」という方針は、質の高い育児を求めるようになり、母親は早期教育に熱心になる一方でストレスを感じて育児不安や育児ノイローゼを生み出すようにもなる。また、1999年に厚生省(現、厚生労働省)が提唱した「育児をしない男を、父親とは呼ばない」キャンペーンは国による少子化対策の一環として登場したものであったが、そこにはケア役割は男女どちらにも適応されるべきという、「ジェンダーに敏感な」メッセージもみられる。2000年代に入ると、父親・親族・近隣・友人・保育園や幼稚園の専門家などを「育児ネットワーク」ととらえる考え方も出てくる。これらの影響により、父親の役割についても性別役割分業に基づき、外で働いて家族を扶養し家庭では子どもに社会規範を教えるという「権威としての父親」論から、パートナーと協力しあって子どもの身の回りの世話をし、父子の交流を楽しむという「ケアラーとしての父親」論にしだいに移りつつある。
他方で、親が子どもの養育を行わない育児放棄(ネグレクト)や親による子どもへの虐待なども増えている。虐待の要因には、生活上のストレスや孤立した育児、「育てにくい子」の出現、世代間連鎖が指摘されており、いずれもその背景として社会で子育てをするという意識が希薄になっていることが考えられる。
2000年代になって登場した「育メン」ということばは「イケメン」をもじったことばであり、育児を積極的に楽しむ「イケてる」男性という意味がある。メディアにおいては、子どもをもつ男性を対象とした雑誌が次々に発刊されたり、「育メン」を題材にしたドラマやコマーシャルが作成されたり、産業界では男性が使いやすい形状や柄を取り入れたベビーカー(乳母車)、ベビーキャリア(抱っこひも)、育児バッグなどの「育メン」グッズが流行した。このような「育メン」現象をもたらしたのは、少子高齢化社会の到来により、日本政府が少子化対策の一貫として始めた父親の育児参加の奨励、発達心理学における父親研究の発展、男性学の台頭、家族社会学を中心とした母親の育児不安研究の発展、1990年代の男性運動(メンズリブ)の醸成などがあげられる。制度・政策的には男性の育児環境が整ってきているとはいえ、現実的には父親の育児休暇取得率は低く、毎日の生活のなかで育児時間を確保するのもまだかなり困難といわざるをえない。
父親の育児に関する研究では、父親の日常的な遊びや世話行為が3歳児の情緒的および社会的発達にポジティブな影響を与えていることや、妻が夫の育児参加を高く評価して夫と協働で育児をしているという実感を得られていることが母親の育児不安軽減につながっていることなど、子どもの発達だけでなく、母親にもプラスの影響を与えていることがわかっている。さらに、父親の心身の苦痛や苦悩が父親の育児参加が頻繁であるほど低くなるなど、父親の育児参加は父親自身にも大きな影響を与えていることも明らかになっている。
明治期の近代教育の補完として誕生した「家庭教育」は、その形を変えつつも、1990年代なかば以降もなお政策的・社会的関心事になっている。まず政策的には、1980年代以前の政府・行政が果たすべき役割は、あくまで「家庭教育」の条件整備にあり、その中身については個々の家庭の方針を尊重するという姿勢が保たれていた。しかし、1990年代以降の政策は、それぞれの価値観やスタイルに基づいて行われるべきものとされていた「家庭教育」の価値観やスタイルを、特定の、かつ事細かに具体的な方向へと、より積極的に誘導していくようになる。1998年の中央教育審議会答申がその典型であり、子どもの「生きる力」を伸ばす家庭のあり方として、家族間の会話を増やす、いっしょに食事をとる、子どもにも家事をさせる、幼児に親が読み聞かせをする等々の、細かく多岐にわたる提言がなされている。このような流れはとどまることなく、教育基本法にも家庭教育に関する条文を盛り込むことになる。すなわち「第10条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする」という条文が追加されたのである。「家庭教育手帳」や「家庭教育ノート」の作成・配布、「早寝早起き朝ごはん」国民運動や「子どもと話そう」全国キャンペーンはこの政策動向のなかで進められたものである。
こうした政策動向を反映しつつも、それとは異なる背景要因によって、より広く社会全般において「家庭教育」への関心が高まっている。「家庭教育」のハウツーを語る雑誌記事・新聞記事や書籍などのマスメディアの顕著な増加という現象である。たとえば、ビジネス系雑誌が「家庭教育」にターゲットを絞った新系統の雑誌を、2005年(平成17)後半から2006年にかけて次々に創刊している。しかも、その内容は1980年代以前のような「受験学力」的な知的能力に特化したものではなく、意欲や関心、さらには対人能力などの内面的・人格的な諸特性に変化していることが特徴的である。
育児は生まれ出てからではなく、身ごもったときからすでに始まっている。とくに5か月目ごろに行われる帯祝いは、妊娠の社会的な承認であり、胎児の生存権を社会的に認めるという重い意味があった。近世の間引が多く行われた時代でも、帯祝いを済ませた子どもは育てねばならなかった。帯祝いは妊婦にとっては妊娠の社会的な承認であり、着帯のころから妊娠の忌みの生活に入るものであった。妊娠の忌みは、妊婦の行動上の禁忌や食物上の禁忌という形で示されたが、それは胎教にもつながるものであった。
胎教は昔からたいせつなものと考えられてきた。とくに胎動が始まる5か月以後、帯祝いを済ませたころから胎教を厳しくした。葬式に立ち合うこと、火事を見ることなどを禁じ、また怒る、泣く、驚くことを戒め、精神的な安定を第一とした。
母乳が生児の成長にとって最上の栄養物であり、自然の理にもかなっていると考えられていたものの、粉乳や牛乳の発達しなかった時代には、初めての乳はよくないとし、胎毒下ろしといって、マクリ(海人草(かいにんそう)という海藻)やフキの根、カンゾウ(甘草)の汁、砂糖水などを飲ませた。そして最初の授乳は生母の乳でなく、同じころに出産をしてすでに授乳している人の乳を飲ませた。このとき男の子には女の子をもっている人、女の子には男の子をもっている人の乳を飲ませるという風習が、1935年(昭和10)ごろまで諸地方で行われていた。この乳付けをチチアワセ、アイチチなどといって、こうするとじょうぶに育つ、縁組みが早いなどといわれた。性の転換による呪力(じゅりょく)によって、子の幸いを願うという多分に呪術的なものである。授乳を縁として結ばれる人を乳付け親とか乳親(ちおや)といい、生児と仮の親子関係を結んで終生つきあった。母乳の代用品としては、重湯、スリコ(米の粉をすったもの)、甘酒の汁、カンギイ(沖縄地方で生米を母がかんで布で漉(こ)したもの)などを用いた。初誕生を迎えるまでの1年間は、乳児とよばれるように、乳と切り離すことはできない。母乳が生児にとって最良の栄養物であるという考え方は、少なくとも第二次世界大戦後の1950年(昭和25)ごろまでは揺らぐことがなかった。
生まれたばかりの子どもは、霊界ともいうべきところから人間界に取り上げられたばかりで、非常に不安定な状態にあるものと考えられていた。とくに生後7日間はその心配がもっとも大きく、七夜(しちや)が、まずこの世に生存するかどうかの一段階になっている。産の忌みがいちばん重いのも一七夜(ひとしちや)までであるが、そのなかでもミツメの三日産屋(うぶや)はとくにたいせつと考えられていた。それほど3日までは母子ともに危険な状態が多かったのである。三日祝いには産婆を正客として招いて、生児に湯を使わせ、初めてミツメギモノという袖(そで)のある産着を着せる。赤子にも膳(ぜん)を供えて産室で共食する。三日祝いは、生児を初めて人間界へ受け入れる最初の儀礼として、たいせつな関門と考えられていた。この人間界への加入を承認する儀礼は、1回だけでなく、成年になるまで何回となく経なければならなかった。とくに宮参りまでの生後1か月の、産屋に伴う出産の儀礼は細かく行われ、儀礼によってその成長を確かめてきた。
七夜は全国的にたいせつな日と考えられて、三日祝いをしない所でも、七夜の祝いは盛大に行う所が多い。この日に名付け祝いをする風習は全国的である。命名をするということは、子どもが一人前の人間として社会に参加する資格を承認することでもある。名前は普通は親がつけるが、産婆、仲人(なこうど)親、子福者(こぶくしゃ)、有力者などが名付け者として命名する例も多い。名付け親は仮親として、生児とは一生親子の関係をもつ。生児が弱くて育たないときに、神職に名付け親になってもらうのを、申し子とかトリゴなどという。
七夜または11日目に、イダシハジメ、ウイデ、デゾメなどといって、生児を初めて産室から出して日の目を見せる儀礼がある。菅笠(すげがさ)やおむつを生児にかぶせて、家々の神々である竈(かまど)神、井戸神、厠(かわや)神、また橋や川端などに参って、米、塩、かつお節などを供える。生児の額には、東北地方ではヤスコといって、男の子には鍋墨(なべずみ)で犬の字を、女の子には紅で丸印をつける。これは古語のアヤツコ(綾つ子)で、悪魔を払うためといわれているが、生児が神の子として承認されたしるしでもある。
宮参りの日取りは地方によってまちまちで、早いのは七夜から、遅いのは100日目まである。しかし、男女児ともに30日前後という例が多い。宮参りは生児を神に氏子として承認してもらう儀礼である。同時に、氏子となれば村の一員として認められるという第一段の社会的な手続でもあった。宮参りはヒアケとかヒノハレともいうように、生児の忌みはこの日でハレルものとされていた。産婦の忌みは古くは75日としたので、産婦は参加せず、産婆や仲人の女親、姑(しゅうとめ)、実家の母、親戚(しんせき)などが抱いて参る。生児には、実家から届けた産着のノシメ(男)やモヨウ(女)のカケギモノをかける。宮城、福島、新潟、栃木、茨城、千葉県などではイナギ、神奈川、山梨県ではオボギノという晒(さらし)の袖なしを、いまでもハレギのノシメなどの上に着せる。産の忌みの観念の強い所では、社前まで行かず、鳥居参りといって鳥居の所で参って帰る。宮参りの帰りには、親戚に寄ってシラガ(白紙に包んだオヒネリ)を産着の紐(ひも)に結んでもらったり、臼(うす)に入れてもらうなど子の縁起を祝う。家では餅(もち)や赤飯で祝い、共食をする。
食い初(ぞ)めの祝いは、100日目から110日目にする所が多いが、6か月目に行う所もある。100日目には生児の首もすわってしっかりしてくる。首がすわるということは、成長の大きな節目なので、「百日のクビスエ」とか「百日の一粒食い」などという。乳以外の大人と同じ物を食べさせることによって、一段と人間界への仲間入りを確認する儀礼でもあった。母の里方から生児の茶碗(ちゃわん)、箸(はし)、膳などをそろえて贈って生児の前に供えるので、ハシソロエ、ハシゾメ、百日のママクイなどともいう。膳には小豆飯(あずきめし)に尾頭付きの魚をつけ、小皿には川原から拾ってきた小石をのせ、「石のおさい」といってなめさせるのは、歯がじょうぶになるためというが、小石は産神の依代(よりしろ)の意と思われる。自分を養う自分の箸、茶碗を与えるというのは、日本独特の習俗であり、食生活のしつけの始まりともいえる。
第二次世界大戦前は正月で年をとったので、生児が初めて迎える初正月には特別の祝いの意味があった。男児には破魔弓(はまゆみ)、女児には羽子板を贈る風習が現在も行われている例もある。節供は男女ともに「初子の初節供」といって、初生児だけが盛大に祝われている。里方や親戚、仮親などから人形や幟(のぼり)を贈る。返礼として菱餅(ひしもち)やちまき、柏餅(かしわもち)などを返す。生児の世間への仲間入りの機会でもあった。
満1年というのは立ち歩きができるという、人間としての飛躍的な成長のときなので、ムカイドキなどといって、餅を搗(つ)き、親類知己を招いて祝う。満1年まで無事に育てば、ひとまず成長の見通しもたつので、初誕生は全国的に祝われている。誕生前に歩き出す子には、一升餅を背負わせてわざと倒す習俗が各地にある。このように生後1年間は、特別の心遣いのもとに儀礼を重ねて、その成長を確かめてきた。子どもの成長に伴う儀礼は、それ自身教育的機能をもっているが、同時に一つの育児法でもあった。
子どもの祝いは地方によってはかならずしも七五三とは限らず、三つと七つ、あるいは七つだけを祝う例が多い。しかし3歳、5歳、7歳は子どもの成長にとってたいせつな節目である。とくに7歳は男女ともに幼年期の終わりとして重要な年齢とされている。氏神に参って改めて氏子入りをする習慣があった。
日本には生みの親や養い親のほかに、多くの仮親をもつ風習がある。出生後一人前になるまでに、取上げ親、乳付け親、名付け親、子が育たぬときに拾ってもらう拾い親などがある。
生後3日目または七夜に、生児をエジコ、ツグラ、イズミという藁(わら)製の籠(かご)に入れる風習が各地にある。はい出すようになると子守をつける。
夜泣き、疳(かん)の虫、麻疹(ましん)(はしか)、疱瘡(ほうそう)など多くの病気には、各地に種々の呪法(じゅほう)や俗信がある。
また四国から瀬戸内海周辺にかけて、子どもを養育することを「児(こ)ヤライ」という。ヤライは追い立てることで、子どもの臀(しり)を後ろから追いたたきながら一人前に育て上げることを意味している。
誕生直後の馬の赤ん坊がおそるおそる歩き出すシーンは感動的だが、人間の赤ん坊は歩くことはおろか、栄養摂取も排泄(はいせつ)処理もすべて養育者に全面的に頼らねば、その生存の維持さえ危うい。人間の嬰児(えいじ)の特徴はその未熟性にあり、そのために育児のもつ比重は非常に大きい。これまで世界各地で発見されてきた「野生児」、つまり人間的養育環境が得られずに育った子どもに関する報告は、成長の各段階において適当な養育を経ることが、人間としての心身両面での成長にとっていかに大切かを示している。また、世界の諸民族における育児をみると、人類として共通している部分と、それぞれの文化に特徴的な部分のあることがわかる。
母親の最初の授乳に際して伝統的に特別の処置がとられていたことが知られている。北米先住民のスー(ダコタ)の人々では、初乳は毒だとされ、新生児が最初に飲まされるのは野草などの汁であった。タイ人のかつての慣習は、生後3日間は母乳を与えず、蜂蜜(はちみつ)などを食べさせるというもので、母親が初めて授乳するときには、年配の婦人にまず乳を吸ってもらう儀式が行われた。ひとたび授乳が始まると、どの社会でも伝統的には授乳時間など気にせずに子どもが欲しがるときに飲ませるのが一般的であった。そして、離乳についても特定の時期を意識することなく、次子の誕生まで授乳が続けられる場合が多かった。また、早くから乳以外の食物が並行して与えられることもあり、そのような社会では離乳は比較的問題なく果たされた。また、乳首に異物を塗るなどのくふうもよくみられた。人工乳の導入に伴って計画的授乳が普及したが、最近では古来からの融通性のある母乳による授乳が、母子の心身衛生上、優れていると見直されている。
北インドのラージプートの人々は、赤ん坊におしめをせず、布にくるんで寝かせておいた。シーツがおしめがわりになっていた。とくに厳しい排便のしつけはなく、子どもは成長するにつれて排泄を親に教えるようになった。それに対し、マダガスカルのタナラの人々は、生後半年ほどの子どものそそうに対してさえ厳罰を与え、早くしつけようとした。一般に緩やかなしつけにおいては、子どもが他人から笑われないようにふるまおうとするのをしつけの原動力としている。
伝統的社会では、乳児にとって第一の養育者が母親であることは、例外的な場合を除いてほとんどの社会に共通していた。しかし、日本でも江戸時代に武家を中心にみられたが、実母にかわって乳母(うば)が養育することが、社会の一部の上層においてみられる場合があった。現代社会では、仕事をもつ母親のために集団保育施設が発達し、乳児を含めた保育が行われている。伝統的社会では、離乳後も母親が主たる育児担当者であることが一般に多いが、サモアでは6、7歳の同じ家に住む少女たちが中心となってその役目を引き受けた。またサモアでは大家族が普通で、家に大人の女性が何人もいるため、母子の密着した関係は存在しなかった。母親が戸外に出て働かねばならないときの乳幼児の世話の問題には、世界各地で伝統的にいろいろな解決法がとられてきた。手のあいている者に子守を頼む場合、多くの社会が年配者に限らず、乳幼児の兄や姉にあたる子どもたちにそれを任せてきた。子どもを動けないように籠(かご)や板に縛り付けておくこともあった。あるいは母親が子どもを背負うなど、自分の体につけて働くこともあった。
どのような育児が行われるかは、その社会の人々が子どもをどう考えているかによって左右される。また育児様式は各文化に適合した人格を形成するように仕組まれているともいえる。M・ミードのニューギニアにおける研究から対照的な2事例が取り出せる。ムンドゥグモルの人々は子どもの誕生を喜ばなかった。彼らの社会では、息子は母の、娘は父の集団に属し、それぞれから財産を相続した。一夫多妻婚が理想で、結婚は、男性間でその近親の女性を交換するのが原則であった。したがって、女性を自分の結婚の交換要員にすることをめぐって、父と息子はライバルとなった。またすべての男たちが敵対しあう社会であった。夫は男児を嫌い、妻は女児を嫌い、嬰児(えいじ)殺しも珍しくなかったという。育児態度はそっけなく、優しさがなかった。子どもは夫婦間に亀裂をつくり、また夫婦の対立に利用された。このように育てられることで、子どもは荒々しさや攻撃性を身につけた。一方、アラペシュの人々は父系制で、各部落は一つの父系親族で構成され、親族間の協力によって農耕などの生計活動が営まれていた。子どもはだいじに育てられ、夫も育児に協力した。泣けば乳がすぐ与えられ、つねにだれかがそばで見守っていた。乱暴なふるまいは禁じられていた。こうして彼らの社会にあった穏和で協調性のある人格が形づくられていくとミードは分析した。しかし、育児様式と性格的特徴とを結び付けることには慎重な態度をとるべきだとする議論もある。
子どもの成長に対して各社会は節目をつくり、それまでの成長をみんなで確認し、喜び合い、以後の順調な生育を祈るための通過儀礼を行う。中国の漢民族の伝統的慣習では、まず3日目に「三朝」があり、新生児を洗ったのち、家の神仏や祖先に拝礼した。1か月目の「満月」では子どもの剃髪(ていはつ)があり、やはり拝礼が行われた。1歳の誕生日は「周歳」とよばれ、拝礼後、いくつかの品物を並べて子どもにとらせ、それで将来を占った。いずれの祝いにも親族・友人が贈り物持参で集まり、祝宴が催された。
移動生活をする南米の採集狩猟民シリオノの人々は、生後3日間は子どもが危険な状態にあり、両親との親密なつながりが維持されると考え、父母と新生児に特別の措置を施した。たとえば、親はその間、食物のタブーを守り、最初の日には足を傷つけて血を流さねばならなかった。子どもを病気にするかもしれない古い血を出すためだといわれた。2日間のさまざまな行為ののち、3日目には終了の儀式が行われた。家族が列をなして森に入り、そこで薪(たきぎ)を集めた。先頭の父親は子どもを守るために弓と矢を携え、続く母親は子どもを肩から吊(つ)り下げ、水の入ったひょうたんをもった。ほかの家族がその後に続いた。森から帰ると、とってきた薪に火をつけ、ひょうたんの水で子どもに水浴させ、そこで初めて人々は日常生活に復帰した。
病気や事故で命を落としやすい子どもを守るため、近代医療の発達前から伝統的にいろいろな方法がとられてきた。動物名や奇妙な意味の名を幼名とする慣習は世界に広く分布したが、これは邪悪なものの注目や嫉妬(しっと)を避けるためであった。また護符となるものを身につけさせることもよくみられる。子どもをとくに守護する神々の信仰も知られている。