桃山時代の画家。長谷川派の祖。能登(のと)国(石川県)七尾(ななお)に生まれる。実父は七尾城主畠山(はたけやま)家の家臣・奥村文之丞、養父は等春(とうしゅん)門人・長谷川宗清で染色を業とした。幼名を又四郎、のち帯刀(たてわき)。若年期信春(しんしゅん)と号し、初めは生国で仏画を中心に制作、その作品が現在能登地方一帯に相当数残されている。1572年(元亀3)京都本法寺の『日堯上人(にちぎょうしょうにん)像』を信春の名で描いており、これ以前に上洛(じょうらく)していたものと思われる。のちまもなく等伯と号し、当代漢画壇に独自の地位を占めた。83年(天正11)ごろ織田信長の菩提(ぼだい)所・総見院、89年には三玄院など、大徳寺諸塔頭(たっちゅう)の客殿襖絵(ふすまえ)や、同じく大徳寺三門の天井画・柱絵を描いた。93年(文禄2)一門を率いて、豊臣(とよとみ)秀吉が愛児棄丸(すてまる)の菩提を弔うために創建した祥雲禅寺(しょううんぜんじ)の障壁画(現京都・智積院(ちしゃくいん)障壁画、国宝)を制作。金地に濃彩を用いた絢爛(けんらん)豪華なその作品は、桃山盛期を代表する傑作の一つに数えられる。その後『千利休(せんのりきゅう)像』(京都・表千家蔵)や『春屋宗園(しゅんおくそうえん)像』(三玄院)、『日通上人像』(本法寺)などの肖像画、妙心寺隣華(りんげ)院、大徳寺真珠庵(あん)、南禅寺金地(こんち)院および天授庵、禅林寺など京洛諸寺院の襖絵を描いた。1604年(慶長9)法橋(ほっきょう)に、翌年法眼(ほうげん)に叙せられる。慶長(けいちょう)15年2月24日、徳川家康の召に応じて下向した江戸の地で客死。菩提寺は本法寺教行院、法名厳浄院等伯日妙居士(こじ)。
絵の師については、上洛後、狩野松栄(かのうしょうえい)、曽我紹祥(そがしょうしょう)、等春などについたと伝えられるが、結局は雪舟へと傾倒し、自ら「自雪舟五代」を称した。さらに宋元(そうげん)水墨画、とくに牧谿(もっけい)様式を学んでしだいに独自の画境を開く。信春時代は、自らもその門徒であった日蓮(にちれん)宗関係の仏画や肖像画などの極彩色画が主であるが、等伯時代には、智積院襖絵などの例外を除いて水墨画がほとんどである。そして晩年にはしだいに画風を硬化させ、いたずらに筆力を誇示した作もみられるが、旺盛(おうせい)な制作意欲は終生変わることがなかった。代表作には、前掲以外に、わが国の水墨画史上最大の傑作の一つに数えられる『松林図屏風(びょうぶ)』(国宝、東京国立博物館)をはじめ『花鳥図屏風』(岡山・妙覚寺)、『枯木猿猴(こぼくえんこう)図』(京都・竜泉庵)、『竹林猿猴図屏風』(京都・相国寺)などがある。
なお、本法寺の日通上人が等伯の話を筆録した『等伯画説』は、わが国最古の本格的画論書として貴重である。等伯の子には、久蔵(きゅうぞう)、宗宅(そうたく)、左近(さこん)、宗也(そうや)の4子が知られ、長男久蔵は夭折(ようせつ)したが、名作智積院襖絵のうち『桜図』が彼の筆と推定されており、兄弟のうちでもっとも優れた画人であった。