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生没年不詳。元禄(げんろく)時代(1688~1704)の豪商。通称紀文、俳号千山(せんざん)。若年のとき暴風雨をついて故郷紀州(和歌山県)から蜜柑(みかん)船を江戸へ回漕(かいそう)し巨利を得たことや、遊里吉原での豪遊の話などで知られるが、その経歴は伝説化され、確かな史料に乏しい。貞享(じょうきょう)年間(1684~88)に江戸に進出、八丁堀で材木商を営み、1698年(元禄11)の上野寛永寺根本中堂(こんぽんちゅうどう)の造営に際して用材調達を一手に請け負い財をなしたといわれる。老中柳沢吉保(よしやす)・阿部正武、勘定奉行(ぶぎょう)荻原重秀(おぎわらしげひで)らに接近、御用商人として、奈良屋茂左衛門(ならやもざえもん)、淀屋辰五郎(よどやたつごろう)などとともに全盛を極めた。しかし、政権担当者が柳沢吉保から新井白石(あらいはくせき)にかわり、デフレ政策が展開され始めると家運は衰退し、宝永(ほうえい)(1704~11)末から正徳(しょうとく)(1711~16)のころには材木商を廃業、江戸深川一の鳥居付近に隠棲(いんせい)した。
俳諧(はいかい)や絵もたしなみ、宝井其角(きかく)、英一蝶(はなぶさいっちょう)らと交友があった。1804年(文化1)に成立した山東京伝(さんとうきょうでん)の『近世奇跡考』には、享保(きょうほう)19年(1734)4月2日没とあるが、紀文を創業蓄財の父と遊蕩(ゆうとう)没落の子の2人と考える紀文二代説もあり、なお不明な部分の多い人物である。