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近世初期、明(みん)の帰化人で中国拳法(けんぽう)家。浙江(せっこう)道虎林(こりん)の出身で、字(あざな)は義都、既白山人・菊秀軒・芝山と号した。鎖国前の1619年(元和5)明朝末の動乱を嫌い、長崎居留の明人を頼って来日、21年浙江道奉檄使(ほうげきし)単鳳翔に従って上洛(じょうらく)、京都所司代板倉伊賀守に面会し、石川丈山(いしかわじょうざん)らと親交を結んだという。詩書をはじめ製陶や拳法など多芸多才の人で、寛永(かんえい)2年(39歳)のころ江戸へ出て、良移心当流和(りょういしんとうりゅうやわら)を創始した福野七郎右衛門らの柔術家と接触して、彼らに少林寺系の中国拳法を伝授したと伝える。その後、江戸、京都、防長などの各地を流泊したが、晩年は尾張(おわり)侯徳川義直(よしなお)に招かれて詩書を講ずるかたわら、瀬戸産の土を用いて陶作に妙技をふるった。その製法は、酸化コバルト系の呉須(ごす)という顔料を使って素地に書画を描き、これに白青色の透明な釉薬(うわぐすり)を施して焼き上げるもので、元贇焼とよばれて珍重されている。寛文(かんぶん)11年名古屋に没した。