新聞とは一般的には、時事的な事項に関するニュース・論評を不特定の大衆に伝達する無綴(と)じの印刷物をさす。固有の題号をもち、有料で連日の発行が通例だが、特定の組織の成員向けのもの、週・月刊のもの、印刷物ではなく、インターネットで送信されるものなど、実際には新聞の態様・内容は変化に富む。新聞は放送と並ぶマス・メディアの一つだが、ジャーナリズムと同義に解され、中国語ではニュースの意である。日本でも江戸時代末期まで同様の意味で用いられていたが、その後、固有の印刷物としての新聞紙をさすことばになった。
[内川芳美]
[桂 敬一]
新聞は一般紙のほかにも多様な種類がある。頒布対象別では、政党・労組・団体等の機関紙、産業分野別の専門紙・業界紙、大学・高等学校・中学校の学校新聞、狭い地域住民・小グループ向けのミニコミ紙などがある。また、広告収入のみに依存し、地域・交通路線別や職業別などの読者に無料で配布されるフリーペーパーもある。発行頻度別では、日刊紙、週刊紙、日曜紙、月刊紙などがある。一般紙はほとんどが日刊紙だが、発行体制・頒布地域の別によって、全国紙、ブロック紙、地方紙(県紙・地域紙)の区別ができる。全国紙は海外にも発行拠点を置くものがある。一般紙の種類についてはさらに「日本の新聞」の項で詳述する。
[桂 敬一]
新聞は近代以降、社会における情報伝達・流通の基幹的媒体となっている。だが、新聞の役割は、政治・経済・社会体制の違いによって、しばしば大きく異なる。近代資本主義の発展を追求した国・社会では、市場の自由が表現の自由の基盤となり、正確・公正なニュースの伝達、自由な意見交換・世論形成が重視されたが、旧ソ連・現代中国などの社会主義体制、開発途上国の独裁的な政治体制のもとでは、国家政策の周知や宣伝が重要な任務とされ、国家の目的への奉仕が重視されてきた。また、21世紀のグローバリゼーションの進展とともに、強大化する国際資本の支配が各国新聞の自由を制約する脅威も増しつつある。
[桂 敬一]
近代的な新聞が登場するのは、近世・封建社会末期から近代国家の形成期にかけてであるが、それ以前にも、社会的な情報伝達を目的としたさまざまの新聞類似物の存在が伝えられている。もっとも古くは、紀元前5世紀ごろのローマに、地方在勤者にニュースを送るための手書きのニューズレターnewsletterの作成者がいたといわれ、前60年、ローマ執政官カエサルは、政府発表事項を日報の形で毎日掲示する『アクタ・ディウルナ』Acta Diurnaをローマの市場forumに設けたといわれる。15~16世紀ころになると、中世ヨーロッパ社会の流動化過程で、商業情報を主とする新しい情報需要と情報流通が高まりをみせた。そのなかで、ドイツのアウクスブルクの豪商フッガー家がヨーロッパ各地の手書きニューズレターをはじめとする情報を組織的に収集していたことは、とくに有名である。15世紀なかばのグーテンベルクによる活版印刷術の発明は、情報伝達技術に革命をもたらした。15世紀末には印刷物によるニュースの伝達流通が始まり、ドイツにフルーク・ブラットFlug Blattとよばれる活版印刷による一枚刷りの絵入りニュースの呼び売りが出現している。こうした不定期の手書きのニューズレターや印刷されたフルーク・ブラットが、やがて17世紀に入り週刊定期のニュース印刷物としての近代新聞に発展していく。
中国の新聞類似物の歴史も古く、唐の玄宗帝(在位712~756)時代に中央政府の布告・法令・人事などを地方諸侯・官僚に伝える『邸報』があり、宋(そう)代には『朝報』、清(しん)代には『京報(けいほう)』と称する類似の媒体があったとされている。
[内川芳美]
近代新聞の祖型は、1609年にドイツのアウクスブルクで創刊された週刊印刷新聞『アビソ』Avisoといえよう。その後、オランダの『ティディング・エイト・フェルシェイデネ・カルティエーレン』Tydinghe uyt Verscheydene Quartieren(1618年創刊)、イギリスの『ウィークリー・ニューズ』Weekly News(1622年創刊)、フランスの『ガゼット』La Gazette(1631年創刊)などが続く。日刊紙はドイツの『ライプチガー・ツァイトゥンク』Leipziger Zeitung(1660年創刊)が最初で、これは短命であったが、あとにイギリスの『デーリー・クーラント』The Daily Courant(1702年創刊)、フランスの『ジュルナール・ド・パリ』Journal de Paris(1777年創刊)が続く。これらは幾多の苦難を経たが、1695年に特許検閲法を廃止したイギリスを先頭に、ヨーロッパでは19世紀後半に向かって検閲・発行許可制の緩和・撤廃が進み、新聞の自由が拡大し、順次新しい新聞が誕生した。1785年、イギリスに出現した『デーリー・ユニバーサル・レジスター』The Daily Universal Registerこそ、後の『タイムズ』The Times(1788年改題)である。またフランスは、大革命期の1789年に『ジュルナール・デ・デバ』Journal des dbatsを生んだ。
19世紀後半、資本主義の進展とともにヨーロッパでは、英語でいうペニー・ペーパーpenny paper(廉価新聞)が出現する。イギリスの『デーリー・テレグラフ』The Daily Telegraph(1855年創刊)、フランスの『プチ・ジュルナール』Le Petit Journal(1863年創刊)などが人気を博し、本格的なイギリスの大衆紙『デーリー・メール』The Daily Mailも1896年創刊で、この流れのなかで、ヨーロッパの高級紙quality paperと大衆紙popular paperの並存構造ができあがった。
20世紀に入ると、第一次世界大戦敗戦と民主的なワイマール体制崩壊ののち、ドイツでヒトラーのナチス独裁体制のもと、新聞がドイツとその侵略を受けた国で自由を奪われる状況が出現したが、第二次世界大戦後、連合国の勝利とともにドイツの新聞は全紙が占領軍によって廃刊、一掃され、同時にフランスなど占領されていた各国でも対独協力紙が消滅し、かわって戦争責任を負わない者のみによる新紙の創刊が相次いだ。だが、戦後の平和と自由を享受した新聞も、20世紀の後半に差しかかると、テレビの発展を主因とする多メディア化のあおりを受け、伝統的な高級紙が部数減などから経営難に陥り、名門『タイムズ』は1966年、カナダ系のトムソン新聞グループに身売りし、さらに1981年には、オーストラリア出身の「メディア王」であるルパート・マードックのニューズ・コーポレーションNews Corporationに買収された。彼はすでに1969年、大部数の大衆紙『サン』The Sunと、同紙日曜版『ニューズ・オブ・ザ・ワールド』The News of the Worldも支配しており、ここに伝統的な高級紙と大衆紙の並存構造に反する、イギリス最大の単一新聞グループが出現することとなった。だが、一方で新聞記者有志の協力のもと、1986年に新しいタイプの高級紙『インディペンデント』The Independentが創刊されたのも、注目される。
フランスでは高級紙としては、最古の『フィガロ』Le Figaro(1854年創刊。保守系)、夕刊紙『ル・モンド』Le Monde(1944年創刊。中道左派系)の競合・共存状況が長く続いたが、反体制運動の起きた1973年、J・P・サルトルらによって『リベラシオン』Libration(急進左派系)が創刊された。また、戦前からの共産党系紙『ユマニテ』L'Humanit(1904年創刊)も健在である。これらパリ紙のほか、ノルマンディ、プロバンスなど多くの地方に特色ある地方紙が存在したが、自動車専門誌経営から身を起こしたロベール・エルサンRobert Hersant(1920―1996)は地方紙のチェーン化に乗り出し、ついに1975年、名門『フィガロ』を傘下に収め、メディア独占の批判を浴びる存在となった。戦後の西ドイツは、ナチスの集権体制を反省し、州(Land)の自立化を強め、その結果、各州・地方都市に有力な地方紙が育った。その代表的な存在が『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥンク』Frankfurter Allgemeine Zeitung(1949年創刊)である。しかし、ドイツでも資力にものをいわせるアクセル・シュプリンガーが、大衆紙『ビルト』Bildを創刊(1952)、さらに高級紙『ディ・ウェルト』Die Weltを買収(1953)、これをてこに新聞チェーンと出版を含む巨大なメディア・コンツェルンをつくりあげていった。また、イタリアではベルルスコーニが1974年、地方テレビ局の経営に着手し、これを足がかりに1977年に日刊紙『イル・ジョルナーレ』Il Giornale(1974年創刊)や大手出版社も買収して、「メディア王」に成り上がり、21世紀初頭には政治家としても威勢を誇った。
[内川芳美]
[桂 敬一]
アメリカ最初の新聞は、イギリス植民地時代のボストンで1690年に創刊された『パブリック・オカレンシズ』Public Occurrencesだが、1号のみで発禁となった。その後もイギリス本国との対立が禍(わざわい)し、『ニューヨーク・ウィークリー・ジャーナル』New York Weekly Journal(1733年創刊)の発行者、ゼンガーJohn Peter Zenger(1697―1746)が植民地総督批判で逮捕される筆禍事件(ゼンガー事件)が起こった。しかし植民地新聞の大半が独立を支持し、合衆国独立後は議会が憲法修正第1条で言論・出版の自由を保障したことで、もっとも先進的な新聞の自由がアメリカで発展していった。1833年には1部1セントの廉価新聞『ニューヨーク・サン』The New York Sunが誕生して、大衆紙時代の道を開き、1851年には高級紙『ニューヨーク・タイムズ』The New York Timesも出現した。さらに1900年前後にかけてニューヨークはジョゼフ・ピュリッツアーの『ワールド』The Worldとウィリアム・R・ハーストの『ジャーナル』The Journalの激しい部数獲得の場となり、読者の低劣な歓心を買う紙面競争は「イエロー・ジャーナリズム」と称され、しばしば世間の批判を浴びた。
大衆紙は20世紀に入っても現代化され、発展していく。速報と写真を重視したタブロイド・サイズの『ニューヨーク・デーリー・ニューズ』The New York Daily News(1919年創刊)はまもなく100万部を達成した。欧米では多くの大衆紙がこの判型をまねるようになり、「タブロイズtabloids」は「大衆紙」の別名ともなった。分権主義的なアメリカでは地方都市を基盤とする地方紙が発達し、全国紙は出現しなかった。巨大新聞社が多くの地方都市に名称の違う多数の新聞を経営する新聞チェーンが生まれるが、ハースト系、スクリップス・ハワード系などのグループが有名である。それらの都市では、激しい商業主義的な競争の後、1紙だけが生き残って広告主を独占して、1都市1紙の「ワンペーパー・タウン」になりやすい。こうした商業主義の跋扈(ばっこ)を嫌い、新聞の公正さを求め、ニューヨークでラルフ・インガソルRalph Ingersoll(1900―1985)が1940年、広告のないタブロイド紙「ピーエム」PMを創刊し、話題となったが、短命に終わった。
第二次世界大戦後、アメリカのメディア界はテレビを中心に大きく繁栄するが、新聞は製作コストが高騰して、しわ寄せが印刷工の賃金にも及び、1962年末、ニューヨーク市の印刷工組合が長期ストライキに突入し、114日間も同市の全新聞が停刊する事態さえ生じた。だが、こうした苦難にもかかわらず、国防総省のベトナム戦争秘密報告書暴露(1971年。『ニューヨーク・タイムズ』の「ペンタゴン・ペーパーズ」報道)、『ワシントン・ポスト』Washington Post(1877年創刊)の「ウォーターゲート事件」スクープ(1972~1973年。ニクソン大統領の政敵盗聴報道)が先駆的な調査報道Investigative reportingの成果をあげ、ジャーナリズムの新たな可能性を示した。一方、経済紙『ウォール・ストリート・ジャーナル』The Wall Street Journal(1889年創刊)が、全国主要都市に発行所を展開して、全国紙化を実現し、さらに『USAトゥデイ』USA Today(1982年創刊)が全米ホテルなどを市場に、いきなり全国紙として出現した。両紙がともに海外発行も始めるなど、ファクシミリ紙面送信・軽量オフセット印刷などの新技術を活用した産業的発展も認められた。
[内川芳美]
[桂 敬一]
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1995年、マイクロソフト社がパソコン用オペレーティングシステム(OS)であるWindows(ウィンドウズ) 95を発表、それが広く一般市民のパソコンに搭載され、瞬く間に普及すると、インターネットによる、まったく新しい情報・コミュニケーションの世界が広がり、あらゆるメディアがその影響を受けることになるが、とくに新聞は21世紀に入り、深刻な影響を被る成り行きとなった。
第一の問題は部数の減少である。アメリカでは、1990年代を通じて微増ながら上昇を続けてきた朝刊総発行部数が、2001年の4682万部を頂点に、その後ほぼ毎年減少、2014年には3677万部にまで落ちた。実は同様の動きは、先に日本に現れた。日本の場合、1997年(平成9)がピーク(朝刊5377万部)であり、以後減少するが、2000年代前半は各年の減少比がコンマ以下で、大きな危機感にはつながらず、アメリカの減少速度の早さが注目された。だが、日本は2008年(平成20)から各年1~3%台へと減少幅を拡大、2015年にはついにアメリカ同様、ピークに対してほぼ1000万部減の4425万部という状態に陥った。世界中の新聞が遅速の差はあれ、同様の状況に直面している。
第二の問題は、20世紀に大きな声望を得た名門紙が、この地殻変動のなか、送り手としての主体性を弱めていることであり、この事態は無視しえない。アメリカの有力地方紙、『ロサンゼルス・タイムズ』Los Angeles Timesは2000年、『シカゴ・トリビューン』Chicago Tribuneに買収され、そのトリビューン社が2013年7月に分社化を図り、収益のあがるテレビ部門のみを残し、新聞グループは別会社にしてしまった。また同年8月、名門『ワシントン・ポスト』がアマゾン創業者、ジェフ・ベゾスJeffrey Bezos(1964― )に買収された。フランスでも2004年、経営不振の『ル・モンド』が航空・軍需企業大手、ラガルデールLagardreに15%の出資を仰ぎ、左派新聞『リベラシオン』さえ、ロスチャイルド家に連なる銀行家、エドゥアール・ド・ロッチルドdouard de Rothschild(1957― )を筆頭株主に迎えた。日本では部数トップの『読売新聞』が1994年に念願の1000万部を達成し、2001年にピークの1028万部を記録したが、2015年には912万部にまで後退した。2位の『朝日新聞』も2001年の832万部を頂点とし、2015年は680万まで部数を落とした。だが、これらはまだ、他国に例をみない巨大部数である。
以上の新聞の衰退は、スマートフォン(スマホ)、タブレットなどの多機能端末が普及し、それらの利用者が、ブログにおける発信者や、ツイッター、フェイスブックなどのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を用いての交信者、テレビ・映画・ゲームのオンデマンド・サービスの利用者ともなり、生活時間やメディア購入費の多くがそちらに移行した結果である。
第三の問題は、デジタル化社会で新聞もどのようにして同じ土俵にたつかである。イギリスの『フィナンシャル・タイムズ(FT)』The Financial Timesは1995年にウェブ版を発足、ほぼ同時にアメリカ『ニューヨーク・タイムズ(NYT)』、日本『朝日新聞』、1996年アメリカ『ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)』、日本『日本経済新聞』と続き、その有料化も『WSJ』(1997)、『FT』(2007)、『日本経済新聞電子版(日経電子版)』(2010)、『NYT』(2011)、『朝日新聞デジタル』(2011)と続いた。『FT』は2012年にウェブ有料版が約30万部を数え、その後も増え続けている。『NYT』は2015年に有料読者が100万人台に達し、『WSJ』の約90万人を越した。アメリカでは2011年からABC(Audit Bureau of Circulations、部数公査機構)が新聞については、有料ウェブと紙の新聞とに分けて合算する方式を採用した。これによって同年、『USAトゥデイ』は『WSJ』に首位の座を奪われ、さらに2013年には『NYT』(186万部)に2位の座をも奪われ、デジタル版の重要性が印象づけられた(2013年発行部数1位『WSJ』印刷版148万部+デジタル版89万部=計237万部、2位『NYT』印刷版73万部+デジタル版113万部=計186万部、3位『USAトゥデイ』印刷版142万部+デジタル版25万部=計167万部)。日本では『日経電子版』がウェブ版有料会員最多を誇るが、まだ約50万人である(2016)。だが、その地位は今後ますます高まるだろう。中国語圏でも2009年から微博(ウェイボー)(英語表記Weibo。ブログ)、2011年・微信(ウェイシン)(英語表記WeChat)といったSNSが急速に拡大し、後者は2015年に中国で9億人、世界中で13億人が利用するに至った。その一方、中国でも党・政府の機関紙は激減し、2015年の新聞トップの座は、新華社のダイジェスト情報紙『参考消息』(307万部)が占める結果となった。
第四はグローバリズムによる影響の問題である。インターネットにこれまでにない商機を発見し、これを新型情報事業に利用し始めたのは、インターネット・情報サービスのヤフーYahoo!、情報検索サービスのグーグルGoogle、通信販売のアマゾンAmazonなどのほうが早い。彼らはその展開にあたって、新聞・通信社のデジタル・コンテンツ提供にまで手を染め、これを放置すれば、既存メディアは彼らのためのコンテンツ・サプライヤー(供給者)に転落するおそれがあった。そこで新聞も独自のウェブ版発行を始めたわけだが、安心はできない。彼らは国境を越え、世界中でコンテンツの収集・流通を行う能力をもち、市場・経済のグローバル化にも、より適合的である。すでに彼らはニュース・アグリゲーターnews aggregatorとして、既存メディア、ジャーナリストからも有用情報を集めて蓄積し、どのような受け手にも、求められた情報を的確に提供する事業を開始している。
第五は、ジャーナリズムの危機という問題である。新聞は、民主的な主権国家の形成・発展過程で、政治・経済・社会・文化、あらゆる面で国民に自由な論議を促し、コンセンサスを生み出す役割を果たしてきた。だが、グローバルなネット・ビジネスは、消費者各人の欲する情報や娯楽の消費を促し、受け手を個あるいは孤に還元して、公衆としての市民を解体する傾向が強い。新聞社が、ウェブ版においてもジャーナリズムの全体性を保持していこうとしても、そのために既存の人員規模の維持が必要だということになれば、やがてかならず採算割れに逢着(ほうちゃく)する。現にデジタル化に力を入れる新聞社では、じりじりと人員縮小が進んでいる。そうしたなか、2007年にサンドラー財団Sandler Foundationがジャーナリスト経験者の協力を得て、ニューヨーク・マンハッタンに非営利の報道組織、プロパブリカProPublicaを設立した。取材は既存新聞・通信社の現役・OBジャーナリストに依頼し、SNSを利用する市民にも協力を求め、記事は無料のウェブで公開するほか、協力メディアも積極的に活用する動きをみせ、2010年にはオンライン・メディアとして初のピュリッツァー賞を受賞したのが注目される。また、アメリカで2005年創刊のリベラル系のインターネット新聞『ハフィントン・ポスト』The Huffington Postが成功すると、世界各国にその自国語版が広がり、日本語版も2013年に朝日新聞が発行を開始した。グローバリゼーションの効用を生かした格好である。2015年に日本経済新聞社がイギリス『フィナンシャル・タイムズ』を発行するフィナンシャル・タイムズ・グループをピアソン社Pearson PLCから買収したことが、同様の意味をもつ可能性もゼロではない。
[桂 敬一]
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日本の新聞全数の正確な把握は困難だが、宅配される一般日刊新聞は、ほとんどが日本新聞協会に加盟しているので、捕捉(ほそく)が可能である。2015年(平成27)の時点で、新聞社数94、新聞紙数104である。この差は全国紙5紙のうち、朝日新聞・毎日新聞・読売新聞が東京・大阪・福岡で発行、日本経済新聞・産経新聞が東京・大阪で発行、ブロック紙(広域地方紙)も中日新聞が名古屋・東京・金沢で発行し、発行本社ごとに1紙と数えるためである。都道府県規模の地方紙は69紙存在するが、2紙並立の福島・沖縄を除き、ほとんどは自県内で1紙が圧倒的な部数を占め、2位以下は狭小の地域紙である。
新聞協会にはほかにも、スポーツ紙、業界紙・専門紙、英字紙などが加盟するが、同会に属さない業界紙・専門紙や地域紙が非日刊も含めて多数あり、それらの全数捕捉はほとんど不可能である。だが、地域紙では日本地方新聞協会(2015年の時点で加盟紙22社)、業界紙・専門紙では日本専門新聞協会(同90社)があり、そこで概況のほか、個別媒体の詳細情報も追跡できる。ここ数年、どちらも加盟紙数がかなり減少しており、特定情報・専門情報紙ほど、インターネットの打撃を大きく被るようすがうかがえる。地域紙では、日本地域紙協議会が東京・日比谷公園の市政会館内に2004年開設した日本地域紙図書館で100紙以上を常時展示している。
[桂 敬一]
一般日刊紙は頒布エリアの広さと発行部数の大きさから、全国紙、ブロック紙、県紙、地域紙(郷土紙とも称される)に類別される。全国紙は上記の5紙、ブロック紙は県境を越えて頒布される大規模地方紙で、北海道新聞、東京新聞、中日新聞、西日本新聞の4紙(ただし東京新聞は中日新聞東京支社の発行紙)。県紙はほとんどの府県で地元の1紙が強大な地位を占めるが、千葉・埼玉、三重・滋賀・奈良・和歌山、山口・佐賀は、東京、名古屋、大阪、福岡などの大都市圏に隣接しており、地元紙が苦戦を強いられている。
一般日刊紙は刊行形態から、セット紙(朝夕刊セット)、朝刊単独紙、夕刊単独紙の区別ができる。有力紙はセット紙発行が多い。ただし、発行本社より遠く離れた地域には、その日の最新ニュースを収容した夕刊を短時間で制作し、送達することが困難なため、そのニュースを翌日の朝刊に吸収して、これを統合版として作成・頒布する。日本では部数の算定は、まずセット紙を1部と数え、これに統合版、単独発行の朝刊および夕刊を、それぞれ1部と数え、総発行部数を算出する。これに対して欧米では、朝夕刊は別売りで、発行部数算定もその両方を合算したものとなる。セット紙重視の日本の新聞社だが、バブル崩壊後、景気の悪化、インターネットの普及につれて「セット崩れ」(セット紙頒布可能区域でも夕刊はいらないと断られ、朝刊だけが購読されること)にみまわれ、おもに地方紙で、朝刊単独発行に後退していく傾向が強まっている。
どの新聞社でも、同じ1日の新聞の内容はすべてが同一ではない。全国紙の朝刊を例にとると、頒布地域を通じて同じ紙面は、学芸面(文化面)ぐらいである。ラジオ・テレビ欄もほぼ同様だが、地方局独自の番組表や解説は、頒布地域に応じて差し替えられる。地元ニュースを収容する地方版も頒布地域ごとに記事内容が切り替えられるが、それも県南版・県北版など、細かく切り分けた地域版が併設されたりする。以上は空間的な多様化の実現だが、これに時間的なバラエティが重なる。同日内の印刷作業は当日の夕刊製作が最初で、遠いセット紙頒布エリア向けの1版から刷り始め、順次ニュースを刷新しつつ、通常3版を刷り分け、午後の比較的早い時刻に夕刊作業が終わる。最新ニュースを含む3版は本社にもっとも近いエリアに配られる。その後、夜半に朝刊作業に入り、同様の方法で翌朝配達される新聞を刷るが、一番早いのが12版、ついで13、14と3版製作する。12・13版は統合版を含む。最終の14版はセット朝刊で、降版(編集が完成紙面を印刷に渡すこと)の時刻は翌朝1時30分前後である。かつて朝刊輸送は列車に頼っており、ニュース競争で1社が勝手に降版時間を遅らせると、全社に支障をきたすため、各社が降版協定を結んでいたが、トラック輸送や地方現地印刷化が進展し、この協定はほぼ有名無実化した。
以上は送り手側における新聞の類別だが、受け手側、読者の姿勢からも、新聞の類別が可能である。すなわち、それを読者が「主読紙」としているか、「併読紙」としているかの区別である。世帯普及部数が1部を大きく超えることのない日本では、多くの家庭が購読1紙=主読紙である。だが地方では、地元紙を主読紙とし、全国紙を併読購入するケースがかなりある。また、大都市では一般紙のいずれかを主読紙として購入し、経済紙を併読する例も多い。日本経済新聞(日経)が1990年代以降、有力地方各紙に現地での印刷を委託してから、そこで併読の地位を維持してきた一般全国紙が、日経にその座を奪われるケースが目だった。各地の夕刊専門紙、地域紙・郷土紙、業界紙・専門紙は上述の競争の埒外(らちがい)にたつ。
[桂 敬一]
日本の新聞発行部数と1世帯当りの部数の変遷は、表1に示すとおりである。
年 | 新聞発行部数 | 世帯数 | 1世帯当り 部数 | ||
---|---|---|---|---|---|
(千部) | (指数) | (千世帯) | (指数) | ||
注:日本新聞協会調べ | |||||
1960 | 24,438 | (100.0) | 20,656 | (100.0) | 1.18 |
1970 | 36,304 | (148.6) | 27,870 | (134.9) | 1.30 |
1980 | 46.391 | (189.8) | 35,831 | (173.5) | 1.29 |
1990 | 51,908 | (212.4) | 41,156 | (199.2) | 1.26 |
1997 | 53,765 | (220.0) | 45,564 | (220.6) | 1.18 |
2000 | 53,709 | (219.8) | 47,420 | (229.6) | 1.13 |
2005 | 52,568 | (215.1) | 50,382 | (243.9) | 1.04 |
2010 | 49,322 | (201.8) | 53,363 | (258.3) | 0.92 |
2015 | 44,247 | (181.1) | 55,364 | (268.0) | 0.80 |
欧米の一般日刊紙はおおむね、高級紙と大衆紙とに区別され、前者は政治・経済・文化に重きを置き、後者は社会ダネ・娯楽に特色をもたせる傾向が認められる。宅配に依存せず、即売で部数競争するために、紙面の差別化が必要なのである。また、政党支持の差異もかなり明確である。これに対して日本では、どの世帯も主読紙として、一般日刊紙としての全国紙または地方紙(地元紙)、どちらか1部を購読する構造が行き渡っており、欧米のようには高級紙・大衆紙の差別化はなされていない。地方でも、報道に関する限り、遠い東京・大阪などから届く全国紙より、地元の発行社が着信したばかりのニュースをすぐ盛り込んで印刷した新聞のほうが、ニュースが新しい。
第二次世界大戦後、プロ野球・プロレスや映画が大衆娯楽として発展すると、スポーツ・芸能を主内容とする即売スポーツ紙が出現し、日本的大衆紙となっていった。さらに高度経済成長の進展とテレビの隆盛に伴い、社会ネタ・芸能ゴシップ・風俗情報を満載したタブロイド夕刊紙も出現し、これら即売新聞がサラリーマンなどの愛読する大衆紙となった。だが、それらのどれも、欧米における大衆紙のような政治的党派性はない。日本では一般日刊紙もほとんどが一様に、中立公正・不偏不党を標榜(ひょうぼう)し、自紙の特徴として政治的党派性を明確にすることはなかった。しかし、1994年(平成6)に読売新聞が「憲法改正試案」を発表し、翌1995年に朝日新聞が現行憲法擁護の路線を打ち出すのに伴い、全国紙を中心に、親自民・反自民の識別が一般日刊紙の間で可能となり、さらに原子力発電所、沖縄問題、2015年安全保障法制などをめぐり、地方紙も含めて政治的党派性の相違が、日本の新聞界でもかなり判然とするようになりつつある。
[桂 敬一]
どの一般日刊紙も、主読紙としての地位を保つ必要があり、いきおい「総合紙」として紙面を制作する結果となっている。すなわち、政治・経済・外信(外報)・文化(学芸)などの硬派記事と、社会・家庭(生活)・スポーツ・芸能・レジャーなどの軟派記事とに含まれる全アイテムを、もれなく収めた紙面を実現するのである。結果的に紙面全体は、特定の読者を志向するものとはならず、どの読者にも読んでもらえるように配慮されることとなる。しいていえば、知識人読者をどの程度意識するか、全国的な普遍性を重んじるか、地方的独自性を重視するか、などによる相違が出る程度である。
通常のページ数(建てページ)は、ブランケット判4ページの倍数と、ペラ2ページが加わる枠内で決められ、おおむね朝刊が28~42ページ、夕刊が8~16ページの範囲に収まる。建てページの増減は、記事量よりも広告掲載量の変動によることが多い。土曜日または日曜日の朝刊には、上記の本版部分とは別に、4~8ページ程度の別刷りの土曜版あるいは日曜版を付す新聞が多い。本版記事の割付け(面割り)は、伝統的には1面トップに硬派記事を重要と思える順に配列し、それ以降のページもおおむね硬派記事で埋め、事件・犯罪などの社会部ネタは、最終面前の見開き2ページ(左が第1社会面、右が第2社会面)に収容し、あとの記事は中のページに、外信面、学芸面、スポーツ面など、それぞれ領域特性を明確化した紙面として収容する。だが、21世紀も2010年代に入ると、朝刊1面に犯罪の大事件突発ニュースや、スポーツの花形選手の活躍といったニュースが登場するようになり、その反対に、夕刊1面トップにニュースでなく、探訪もの・人物ものなどの読み物が載るようなことも生じている。こうした面建ては、朝刊・夕刊それぞれについて1日1回の作業ですむものでなく、時間差による版替えに応じ、新着ニュースを入れ替え、さらに異なる頒布地域に応じた地方版の付け替えもあり、全国紙では毎日、延べ100回以上も版替えするのが普通である。加えてセット紙頒布地域では、朝刊と前日夕刊掲載のニュースが重複しないよう切り替えることにも、神経が使われている。
[桂 敬一]
新聞社の機構と新聞製作の流れを一つのモデルとして図示すると図のようになる。電子編集による紙面製作化が進み、さらにインターネットの普及に伴い、パソコン、スマートフォン(スマホ)、タブレットなどに新聞のデジタル版が送れるようになると、製作体制が大きく変わってきた(2010年代以降)。従来は、編集局が取材・記事編集・紙面化にあたっていたが、ワンソースの報道素材が紙面にもデジタル・サービスにも使用(ワンソース・マルチユース)でき、さらに後者における素材は、系列放送局や提携ウェブサイトにも提供されることとなり、それら全体を見渡して作業管理を行う編成局体制がとられるようになった。これが一番大きな変化である。朝日新聞は報道局・編成局の2局体制をとり、毎日新聞は編集編成局の1局体制であるが、大筋においてねらうところは同じである。
紙面編集体制はほぼ伝統的なスタイルのままである。編集会議が局次長(局デスク)主宰のもと、政治部・社会部など出稿各部の部長によって開かれ、その日の方針を決める。整理部がこれに従って、各紙面をレイアウトし、見出し付けをする。できあがった紙面は、各版所定の降版時間ごとに印刷部に送られる。これに対してデジタル版では、時間や地域ごとに異なる段階的な版の締切りがなく、工場の作業スケジュールに拘束されない。出稿各部からの記事が着き次第、事実関係、用字用語などのチェックがすめば、技術的にはそれをいつでも出力できる。2000年代初めごろは、重要記事は本紙での第1報のあとにデジタル版に出す、とするルールを守る時期があったが、デジタル版の有料化を推進する時代ともなると、ニュースはデジタル版に真っ先に出し、詳報情報もデジタル版のほうに載せたり、写真も動画で見せたりするなど、デジタルの特性を生かすくふうが凝らされるようになってきた。
見逃せないのが記者取材の変化である。記者がSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を使いこなし、ツイッター、ブログなどで直接、読者と情報交換するようになると、それが取材機会ともなり、読者の提供情報から記事作成のための報道取材が始まることも生じ始めている。
[桂 敬一]
太平洋戦争下、官庁取材は、情報局の新聞統合によって存置が認められた社の記者だけに許されることとなり、それ以前から存在した、比較的ルーズだった官庁内の記者クラブは事実上、厳しい記者登録制をもつシステムに変貌(へんぼう)した。敗戦後、復刊紙・新興紙が登場したが、多くの官庁記者クラブは、日本新聞協会の会員社(放送も含む)記者だけに入会を認めるとする規則をもち、それは政党本部・地方公共団体・大企業などの記者クラブにも適用された。庁内の記者室(クラブ室)には各社別ブースや応接室などが設けられ、コピー機・電話・インターネットなどの便宜供与もある。だが、このようなクラブに安住した取材が、しだいに厳しい批判にさらされるようになる。一つは、閉鎖的な情報源との癒着が結果的に新聞報道に画一性を与え、ときに特定紙がスクープを出しても、情報操作の疑惑が付きまとうなど、いろいろな弊害が避けられなかったからである。
しかし、やがて出版社系の週刊誌が多数出現して報道競争に加わり、またフリーのジャーナリストが増えてくると、公共機関の記者室を特定メディアだけが独占するのは不公正だ、自分たちにも開放せよ、とする声があがるようになった。1996年、鎌倉市は市役所内の記者室を閉鎖して、「広報メディアセンター」を新設し、これを市に取材登録するすべての記者に開放した。2001年には長野県知事(当時)田中康夫も「脱・記者クラブ宣言」を発し、同様の措置をとった。2009年9月、民主党は政権をとると、記者クラブ・オープン化の方針を打ち出し、まず外務省が政府発行の記者登録証を所持する外人記者の会見出席を認め、さらに適用範囲を雑誌・インターネットの記者、フリーランスにも広げていき、各省庁もこれに倣っていった。2011年の東北地方太平洋沖地震の影響により、福島第一原子力発電所が大事故を起こすと、東京電力の記者会見場には所属を異にする多数の取材者が集まり、とくにネット取材者の発信力とその伝達力の大きさが注目された。記者クラブに安住する取材・報道だけでは、ジャーナリストに課された役割が果たしきれない時代が到来したのである。
[桂 敬一]
民主主義のもとでは、プレスの主要な責務は国家権力の監視にあるといわれる。だが、その責務を果たすためには、権力の規制・介入を許すような隙(すき)をつくってはならず、とくに報道倫理の確保は自主的に達成する必要がある。そのため日本では第二次世界大戦後、日本新聞協会が「新聞倫理綱領」を定め、その遵守を誓約するものが会員社となった。さらに1958年(昭和33)、新聞協会が呼びかけ、放送・出版・広告界の団体も参加して、マスコミ倫理懇談会全国協議会が設立された。同会は自律によって倫理水準の維持・向上を図り、メディア全体の独立を堅固なものとするために活動を続けている。しかし、たとえば猟奇性の強い犯罪事件が起きた場合などには、欧米の高級紙ではみられないことだが、日本では大新聞でも警察取材に熱中し、全メディア入り乱れて犯人を標的にした報道競争を繰り広げるのが通例となっており、被疑者の実名を暴き、私生活の細部まで世間にさらすなど、プライバシー侵害・名誉毀損(きそん)を引き起こすことも生じるようになった。その後、浅野健一(1948― 。ジャーナリスト)の『犯罪報道の犯罪』(1984)での指摘などに自省を促され、報道界は新たな問題克服へと向かうことになった。
そうしたなか、政府は1990年代、各国の情報公開制度の進展にあわせ、日本でのその実現を検討し、1999年(平成11)に情報公開法を成立させたが、同時に行政の情報規制権限の強化も進め、通信傍受法(1999年成立)、個人情報保護法(2003年成立)、人権擁護法案(2002年検討開始。審議未了廃案)など、メディア規制の危険をはらむ制度づくりに励んできた。さらに2003年、アメリカがイラク戦争を開始すると、政府が有事法を制定、戦闘地域に自衛隊が派遣されると、戦争をめぐる取材・報道の自由も現実的に大きな制約を受けることになった。
2012年、第二次安倍晋三(あべしんぞう)内閣が成立すると、2015年までに、武力行使を可能とする集団的自衛権解釈、日米防衛協力指針(ガイドライン)改定、特定秘密保護法、安全保障関連法制などが実現して、世界中での他国軍支援を可能とする法制化が進んだ。安倍政権は2016年、南スーダン国連軍PKO(国連平和維持活動)部隊に派遣した自衛隊の行動範囲を拡大、2017年に入ると、ミサイル実験を繰り返す北朝鮮に対する制裁でアメリカと同一歩調をとる一方、国内では共謀罪法の制定を推進、さらに憲法9条に自衛隊を明記する改憲案を具体的に提唱、歴然たる戦後レジーム(体制)解消への歩みを強めた。
このような動きに対して、読売新聞と産経新聞は明確な支援を送り、朝日新聞と毎日新聞は批判を加え、地方新聞もやや批判派が多いものの足並みがそろっていない。良くも悪くも戦後レジームは、メディアの独立と自由を保障するものとして成り立ってきた。その確保は、1985年(昭和60)の政府による国家秘密法案提起に対して、新聞・放送・出版界がこぞって反対の声をあげ、廃案に追い込んだのが好例だが、メディア自身の努力によって勝ち取るべきものであろう。日本の「新聞の自由と独立」は新たな転換点にたたされることとなった。
[桂 敬一]
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世界新聞協会(WAN:World Association of Newspapers)は、2009年7月に国際新聞技術研究協会(IFRA)と合併し、世界新聞・ニュース発行者協会(WAN-IFRA:World Association of Newspapers and News Publishers)となった。従来の名称に「and News Publishers」を付け加え、新聞に拠(よ)らないメディアの営みに従事する人々をも包含する意味をもたせている。また2015年6月に、ワシントンで恒例の世界新聞大会(第67回)開催の運びとなったが、同年より大会名が変更され「世界ニュース・メディア大会」とよばれることになった。ことほどさように新聞紙の影が薄くなり、かわってモバイルの存在が重視される状況になっている。そのうえで、デジタルをいかにマネタイズするかがこれからの新聞社の重点課題だと、世界中の新聞関係者がしきりに論ずるようになった。だが、トランプ現象の例にみるように、市民社会から疎外されたり、自らそれに背いたりする孤立した個人の、ポリュリズムに流されがちな言説空間を、収益第一で肥大させていくばかりだと、それが無責任な独裁者を生み、政治と社会を暴走させていく危険も大きくなる。新聞はいかにしてそこに、真にジャーナリズムの名に値する言説空間を、パートナーとしての市民の自発性にゆだねつつ、生み出していくかを追求していくべきであろう。
2007年、オーストラリアのジャーナリストであるジュリアン・アサンジJulian P. Assange(1971― )のウィキリークスWikiLeaksによって、秘匿されてきたアメリカ軍によるイラク戦争の蛮行などが暴かれ、世界は大きな衝撃を受けた。さらに2013年になると、アメリカ国家安全保障局(NSA)および中央情報局(CIA)の元局員エドワード・スノーデンEdward Joseph Snowden(1983― )がアメリカ国家安全保障局の文書を暴露し、アメリカ政府が自国民や同盟国をもスパイしていた事実を明らかにした。そして2016年には、「パナマ文書」が世界中の金融資本や大企業がオフショア(国内規制の届かない海外の金融取引拠点)をタックス・ヘイブン(租税回避地)として利用し、どのようにして自国に対する課税逃れ、利益隠しを行っているかを暴露した。この文書は、世界中のジャーナリストが自発的に組織した国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ。本部・ワシントン)が発表したものであるが、同連合には世界60か国以上のジャーナリストが加盟しており、日本からも朝日新聞、共同通信の記者が加わっている。インターネットの進歩は、実は記者たちのこのような職業活動の高度化、連携の強化や拡大にも生かされていることに注目する必要もあろう。
新聞、あるいは出版だけでなく、ラジオ、テレビのような電波メディアも、オンデマンド、非同期の個別提供方式でオーディエンスに届けられるものとなりつつあり、既存マス・メディアはすべてデジタルの世界における変容を強いられている。それらは、アマゾンやグーグル、あるいは多くのキュレーション・サイト(インターネット上の情報を収集しまとめたサイト)などとの提携や合体まで考えれば、経済的にはうまくいくかもしれない。だがその結果として、言論表現媒体としての個性や信頼性、すなわちジャーナリズムの本質を喪失することにつながるおそれもある。この問題は、自分の会社ならうまくやれるという、抜け駆け競争に任せていては解決できるものではない。すでにヨーロッパでは、付加価値税(Value Added Tax)の実施、税率アップの過程で、新聞・出版には軽減税率を適用して、企業が過剰に営利追求に走らなくてもすむような安定性を制度的に保障してきた。その背景には、業界の要請よりも、直接負担の軽減が実感できる国民の要請のほうが、より大きなものとして存在しているという状況がある。また、このような間接助成だけでなく、国にもよるが、職業教育助成、存立困難なメディアの救済補助など、さまざまな直接助成も制度化されている。インターネットのジャーナリズム・メディア化を追求する際、国ごとに特別なくふうは必要であろうが、まずは国際的に、言論報道機関として公共性をもつメディアの共通定義を確立し、その保全と発展を保障する制度の必要を訴えていくことが、緊急かつ重要な課題になっている。
[桂 敬一]