南シナ海における、中国と東南アジア諸国連合(ASEAN(アセアン))の沿岸諸国による島礁(島・岩・低潮高地・暗礁・砂州・堆のすべてを含む表現)の領有権や漁業・エネルギー資源開発をめぐる利害対立のこと。現場海域が東西貿易のための海上交通路の要衝であることから生ずる域外諸国の安全保障問題も含まれる。
南シナ海には、スプラトリー諸島(中国名、南沙群島)、パラセル諸島(中国名、西沙群島)、マックレスフィールド岩礁群(中国名、中沙群島)、プラタス諸島(中国名、東沙群島)の4諸島がある。これらの多くは深海から屹立(きつりつ)するサンゴ環礁で、19世紀以前は船舶が座礁する危険海域として有名であった。18世紀から19世紀にかけて、最初にこの海域の島礁の測量や探検を行ったのはイギリスであるが、スペインも領有を主張したことがある。その他、清(しん)や阮(げん)朝のベトナム、フィリピン、イギリス領北ボルネオ(現、マレーシア領サバ州)などの漁民たちの活動も行われていた。
清は、1909年にパラセル諸島を行政区画に取り込み、1913年に日本との間でプラタス諸島の領有を確定させた。スプラトリー諸島については、日本人が1917年(大正6)ころから海鳥の糞(ふん)の堆積からできた燐(りん)鉱石(グアノ)の採取を行っていた。しかし、1933年にフランスが占領を告知し、1939年(昭和14)にこれを新南群島と名づけて台湾総督府に編入した日本と対立、1940年10月にフランス側が退去した。日本は、1937年にプラタス諸島、1939年にはパラセル諸島も占領し、南シナ海の全諸島を占有した。なお、マックレスフィールド岩礁群は一部の島礁を除き、すべて暗礁のため、関係諸国の間で、具体的な占有活動はほとんど行われなかった。
第二次世界大戦前・戦時中に、日本はスプラトリー諸島のイツ・アバ島(旧日本名、長島。後の中国名、太平島)に気象観測所と神社を設立し、民間企業が燐鉱石の開発や漁業関連で進出したほか、旧日本海軍が陸戦隊を配備し、南進のための補給基地の一つとして利用した。
日本の敗戦後は、1946年にフランス、中華民国がスプラトリー、パラセル両諸島の領有を争い、フィリピンもスプラトリー諸島を国防範囲に含めるなどした。中華民国は、1946年12月に「太平」「中業」の両軍艦を派遣し、スプラトリー諸島を接収した(イツ・アバ島を太平島と名づけたのはこの軍艦名にちなむ)。南シナ海の大部分をその線内に含む破線のU字線(十一段線)を1947年の地図に示したが、中華民国は1949年に台湾に遷都し(以下、台湾)、中国大陸は共産党政権下で中華人民共和国(以下、中国)となった。
中国は1950年に、北東部のアムフィットライト諸島(中国名、宣徳群島)と南西部のクレセント諸島(中国名、永楽群島)に二分されるパラセル諸島のうち、ウッディ島(中国名、永興島)などを含むアムフィットライト諸島を占拠した。一方、クレセント諸島はベトナムの植民地宗主国であるフランス軍が占拠していた。そして1951年(昭和26)9月のサンフランシスコ対日講和条約締結を控えた同年8月に、中国の首相兼外相の周恩来(しゅうおんらい)は南シナ海の4諸島の領有を主張した。これは、中台双方が中国の代表権をめぐって争っていることから、南シナ海諸島に対する領有権を日本が放棄する対日講和会議に招かれなかったためである。
中国は1953年、台湾と同様に地図の南シナ海の部分に破線のU字線(九段線)を引いて、領有を主張した。十一段線を九段線に変えたのは、トンキン湾の内部の二段分を外し、中越両国が協議によって境界を決めることにしたからである(ただし、この協議の妥結は2000年12月である)。なお、スプラトリー諸島についてはフィリピンとベトナム国(後のベトナム共和国=南ベトナム)の両国が、パラセル諸島についてはベトナム国が、サンフランシスコ講和条約の締結直前に領有を主張した。
1956年3月にフィリピンの民間団体である海洋問題研究所所長のトマス・クロマTomas Cloma(1904―1996)がスプラトリー諸島の一部を探検し、これらをカラヤーン群島(フリーダム・ランド)と名づけ、領有を主張した。なお、クロマの息子らが太平島に6月27日に上陸し、中華民国国旗を持ち帰るなどしたため、台湾は7月6日に陸戦隊を上陸させ駐留を開始した。
一方、南ベトナムは同年6月1日にパラセル、スプラトリー両諸島の領有コミュニケを出した(南ベトナムは、撤退するフランスから両諸島の領有権を引き継いだとの立場である)。これに対してベトナム民主共和国(北ベトナム)は、外務次官が6月15日の中国のハノイ駐在臨時代表との会見の際、口頭で両諸島の中国領有を認めたといわれる。また、1958年の周恩来による両諸島を含む「(12海里)領海に関する声明」を、北ベトナム首相のファン・バン・ドンが認める書簡を送ったとされている。これらは、中国が、ベトナム戦争に勝利した北ベトナムによって南北統一されたベトナム(ベトナム社会主義共和国)のパラセル、スプラトリー両諸島の領有を国際法における「禁反言」原則に対する違反であると主張する根拠とされているが、ファン・バン・ドンの書簡には具体的な島礁名は記されていない。
1968~1969年には、国連により東シナ海、南シナ海での海底資源探査が実施され、南シナ海についてもエネルギー資源の存在可能性の期待が高まった。そして、1973年10月の第四次中東戦争の際のオイル・ショックや、1976年にアメリカで制定された漁業保全管理法をきっかけとして、世界各国が200海里の排他的経済水域(EEZ)の設定に踏み切ることとなった。無人島でも、一つの島を領有していれば、その周囲200海里の資源の保有が認められることになり、南シナ海の沿岸諸国の間でも、島礁の領有主張が過熱した。
ちなみに、南シナ海に賦存する資源の量について、石油・天然ガスなどのエネルギー資源では、中国国土資源部は2200億バレルの原油と2000兆立方フィート程度の天然ガスがあるといっているが(2009年公表数値)、アメリカのエネルギー情報局の見積もりでは原油の埋蔵量はその20分の1くらいで、かなりの差がある(2014年公表数値)。
南シナ海は、中国側のデータで平均水深が1212メートルあり(東シナ海は370メートル)、海域面積も368万5000平方キロメートル程度で、東シナ海の5倍弱ある。中国海軍の戦略ミサイル原子力潜水艦(戦略原潜)を隠すには都合がよいが、採掘実績のある沿岸部の堆積盆を除くと、かりに埋蔵量が確認されていても、原油の採掘には困難も多いと考えられる。漁獲については、2015年に南シナ海全体で、1000万トンくらいの水揚げがあった。
1971年7月10日になるとフィリピンのマルコス政権がスプラトリー諸島の領有を主張し、10月までにパガサ島(中国名、中業島)など6島礁に軍を送って占領した。一方、南ベトナムは、1973年8月にスプラトリー諸島の六つの島礁を占領し、1974年1月15日にパラセル諸島をダナン市に編入し、軍艦を送るなどの行動をとった。これに対して中国側も軍艦を送り、1月19日、20日に両国海軍による海戦が行われ、勝利した中国海軍はパラセル諸島全域を武力で制圧した。中国側の記録では、南ベトナム側の死傷者は100余名、中国側の死傷者は85名であったという。
1979年12月にはマレーシアが、領海・大陸棚を明示した地図を発行してスワロー礁(中国名、弾丸礁)やアンボイナ砂洲(中国名、安波沙洲)などスプラトリー諸島の一部の領有を主張し、1982年にはブルネイがEEZを引いて、その中に含まれる低潮高地の領有を主張した。
その後はしばらく静かであったが、1988年3月に、スプラトリー諸島のジョンソン南礁(中国名、赤瓜礁)周辺海域で、中国とベトナム社会主義共和国(以下、ベトナム)との海戦が起こる。中国海軍はフリゲート艦でベトナム海軍の輸送船3隻を襲い、2隻を撃沈し、ベトナム兵64名を死亡させた。ベトナム側は、1987年までに15島礁を占拠していたといわれ、中国には対抗意識があったと思われる。そして中国は、その後1年かけて、ジョンソン南礁を含む7島礁を占拠した。
中越の海戦はASEAN諸国に衝撃を与えた。東南アジアへの中国の安全保障上の影響力の伸長を懸念したASEAN諸国は、中国と話し合いの場をもとうと、1991年のASEAN外相会議開幕式に中国外相の銭其琛(せんきしん)(1928―2017)をゲストとして招待し、事実上のASEAN・中国外相会議が始まる。さらに、1994年以降はASEAN地域フォーラム(ARF)にも中国を招待し、ASEANの会議外交のなかで、南シナ海問題の管理への努力を始めた。このころ、第二次天安門事件で西側先進諸国と対立していた中国は比較的低姿勢で、1992年2月に「領海法」を公布し、尖閣(せんかく)諸島と南シナ海の全島礁の領有を宣言したほかは、スプラトリー諸島のガベン礁(中国名、南薫礁)に領土標識を立てたくらいであった。ASEAN側はこれに対して、すべての係争当事者に平和的解決と自制を求める「南シナ海宣言」を出していた。
しかし、1991年9月には在フィリピン米軍基地の存続条約がフィリピン上院で否決されるという、中国の次の南シナ海進出を誘う問題が立ち上がった。
1995年1月25日にフィリピン政府は、中国がミスチーフ礁(中国名、美済礁)に軍事施設を建設した疑いがあることを発表した。中国が占拠した八つ目のスプラトリー諸島の島礁であり、中国海軍はさらに1998年10月から1999年1月までに二度目の建築を行い、最終的に3棟の高脚式建造物と5階建てのビルを完成させた。フィリピン政府は、中国との二国間交渉で建造物の撤去を訴えるとともに、南シナ海における中比間の行動規範を締結した。またASEAN諸国は、ARFや1997年設立のASEAN・中国首脳会議の場で、ASEAN・中国間の「南シナ海の係争当事者間の行動規範(COC:Code of the Conduct in the South China Sea)」の締結を訴えることにした。ASEAN諸国の外相たちは、1995年3月に名ざしは避けたものの、「南シナ海の最近の情勢に関する外相声明」を出して、中国を牽制(けんせい)した。フィリピンは、1998年2月に訪問米軍地位協定を結び、米軍を呼び戻す努力もした。また、1999年5月9日には、セカンドトーマス礁(フィリピン名、アユンギン礁。中国名、仁愛礁)に戦車揚陸艦シエラ・マドレを座礁させて海兵隊を駐屯させることもしている。
なお、スプラトリー諸島の領有権争いはASEAN諸国間でもあり、マレーシアは1995年5月には占拠中で建造物のあるスワロー礁に1000メートル級の滑走路を完成させ(2003年に1300メートル級に延伸)、同国海軍は1999年6月には、フィリピン、ベトナム、中国と係争中のスプラトリー諸島のインベスティゲーター砂州(中国名、楡亜暗沙)、エリカ礁(中国名、簸箕礁)にも建造物を構築し、兵員を駐在させた。
ASEAN・中国間で始まったCOCの締結を目ざす交渉は、結局2002年11月のASEAN・中国首脳会議で、法的拘束力をもつCOCを嫌う中国との妥協により、「南シナ海の係争当事者間の行動宣言(DOC:Declaration on the Conduct of Parties in the South China Sea)」として合意された。DOCの内容は、国連憲章と国連海洋法条約、そして東南アジア友好協力条約(TAC:Treaty of Amity and Cooperation in Southeast Asia。ASEAN域内で1976年に締結)、平和五原則、国際法の原則にのっとって、係争当事者は領海紛争を武力や威嚇によらず、平和的に解決するとし、各国の国防軍事諸官の対話、軍事演習の自発的な通知、情報交換などの信頼醸成措置(CBM)と、海洋環境保護、海洋科学調査、航行安全、捜索救難、薬物や海賊等の越境性犯罪対策などに関する協調的活動の探求を行う、となっている。
DOCの採択からしばらく、中国は南シナ海での攻勢を控え、ASEAN側の歓心を買うことに努めた。1997~1998年のアジア通貨危機への対策でASEAN諸国が日本になびいたことと、2001年9月のアメリカ同時多発テロ以降の対イスラム諸国政策において、強硬策をとるアメリカと対立し孤立気味であったことがその背景にある。
中国はDOCの採択とほぼ同時に、ASEAN・中国自由貿易協定(ACFTA)を締結し、ASEAN側からの一次産品の購入に意欲を示し、2003年10月には紛争の平和的解決をうたっているTACの署名国にもなった。
中国はさらに、2004年9月に訪中したフィリピン大統領のアロヨに二国間でのスプラトリー諸島周辺海域でのエネルギー資源の共同地震波探査を提案した。共同地震波探査はベトナムを加え、2005年3月に3国の石油会社による14万3000平方キロメートル(全スプラトリー諸島周辺海域面積80万平方キロメートルの17.8%)の海域を3年かけて探査する合意が結ばれた。この探査については何の成果も伝えられていないが、注目すべきは協力がなされたこと自体よりも、中国がASEAN全体とではなく、その一部である直接係争当事者とだけ交渉して、探査を行ったことである。これはDOCの採択までASEANとの協調を心がけてきた、中国の南シナ海政策が変わり始めたことを示している。
その後中国は、組織としてのASEAN相手ではなく、小国ばかりの係争当事者との直接交渉(とくに二国間交渉)や、一方的な外交・軍事政策を重視する姿勢に転換し始めた。中国は、ASEAN側からたびたび求められたにもかかわらず、DOCにうたわれている協調的活動の探求の実践に応じなかった。
中国国務院は2007年11月に、海南(かいなん)省による南沙・西沙・中沙群島をあわせた三沙(さんさ)市制の立ち上げを批准し、2008年4月には中国海軍が海南島の三亜(さんあ)に、潜水艦が潜没したまま出入港できる洞窟内の地下基地をつくった。行政面で南シナ海の管理を強化するとともに、東シナ海に比べ深度のある南シナ海を戦略原潜の作戦行動のための「聖域」にしようとしたのである。
2009年3月には、海南島沖の中国のEEZで、アメリカの音響測定艦が中国側船艇から妨害を受ける事件も起きた。2010年になると、中国政府要人はアメリカ政府要人に対し、南シナ海は「(中国が議論の余地のない主権を有する)核心的利益になった」と述べた。中国の南シナ海政策は明らかに変化した。2007年に国防費で、2010年に国内総生産(GDP)で日本を抜き、力をつけた中国は、南シナ海での領有権争いは係争当事諸国を除けば、組織としてのASEANではなく、アメリカを相手とする問題であると認識し始めた。
また、2009年ころから、スプラトリー諸島で自国が占拠した島礁にヘリパッドをつくるなど、増築工事を始めている。2010年11月には、中国海軍が艦艇100隻以上、海兵隊員1800名、航空機等を動員した島礁占拠の実弾演習「蛟竜(こうりゅう)2010」を広東(カントン)省の湛江(たんこう)と海南島の間の海域で実施し、「某国の近年の海洋問題への介入に対抗するため」の演習であるとした。領有権争いでASEAN側の係争当事者に圧力をかけるとともに、アメリカを牽制する意図が感じられる。
2011年になると、5月、6月と続けて中国の海上法執行機関の船と漁船がベトナムの資源探査船のケーブルを切る妨害事件が起こった。事件を受けてASEAN側の圧力が高まり、7月のASEAN・中国外相会議では、遅れていた「南シナ海の係争当事者間の行動宣言の実施ガイドライン」がようやく決まった。中国は、ベトナムの反中感情を鎮め、ASEANが反中で団結しないように、この年10月にベトナム共産党書記長のグエン・フー・チョンNguyen Phu Trong(1944―2024)を北京(ペキン)に招き、国家主席の胡錦濤(こきんとう)との会談で「海洋問題の解決を導く基本原則についての合意」を取り交わした。
2012年になると、4月にマックレスフィールド岩礁群のスカボロー礁(中国名、黄岩島)で、中国の海上法執行機関の船および漁船とフィリピン海軍(のちに同国沿岸警備隊)が対峙(たいじ)する状況が発生し、中国側はフィリピン側が退去した後もスカボロー礁に居座った。
同年11月の中国共産党第18回全国代表大会(党大会)の活動報告で、引退を控えた胡錦濤は、「海洋資源開発能力を向上させ、国家海洋権益を断固として保護維持し、海洋強国を建設すべきだ」と述べた。「海洋強国」の定義と目標について、当時の国家海洋局長の劉賜貴(りゅうしき)(1955― )は「海洋強国とは、海洋開発・海洋利用・海洋保護・海洋管理統制等の面で総合的な実力を有する国をさす」と説明している。穏健な外交政策をとってきた胡錦濤政権では、この政策は抑えられていたが、2013年に国家主席になった習近平(しゅうきんぺい)のもとで、海洋強国政策は重視されるようになる。
2013年になると、ミスチーフ礁やスカボロー礁への中国の居座りに業(ごう)を煮やしたフィリピン政府が、1月にオランダ・ハーグの常設仲裁裁判所(PCA)に中国の九段線の有効性についての審理を申し立てた。一方、中国政府は3月10日に国家海洋委員会を新設するとともに、海監、海警、漁政、海関の四つの海上法執行機関を、国家海洋局と中国海警局の下に統合し中国海警として再編することを決めた。3月26日には、中国海軍がドック型揚陸艦を用いてスプラトリー諸島周辺海域で上陸演習を実施し、マレーシアと領有を争う同諸島最南端のジェームズ礁(中国名、曽母暗沙)近海まで進出したため、マレーシア政府が抗議した。なお中国海警局の船艇も、2013年ごろから、マレーシアが領有を主張するルコニア礁に現れるようになった。またフィリピン政府は、同国が領有を主張しているスカボロー礁やスプラトリー諸島のセカンドトーマス礁周辺でも中国の軍と海警の船が多数出てきていると非難している。
中国は、海軍艦艇や海警船と漁船を一緒に行動させるが、これはフィリピンなどからみれば、不法操業を政府公船が護衛しているようにみえる。不法操業は、インドネシアのナトゥナ諸島のEEZでも行われ、2010年以降、同国と中国の間で紛争となっている。
2014年になると、1月に中国海軍はふたたびドック型揚陸艦を用いて、パラセル、スプラトリー両諸島で上陸演習を実施し、ジェームズ礁付近で主権宣誓式を実施したと中国国営通信の新華社が報じている(マレーシア側は海軍司令官が報道を否定)。そして、5月に中国は、パラセル諸島の沖合でエネルギー資源探査用の掘削リグ「海洋石油981」を出して資源探査を始め、海警船艇、貨物船、漁船に、少数の中国海軍艦艇まで出してこれを護衛した。ベトナムは海上警察や漁業監視局の小型船艇で対抗し、西側メディアに中国の海洋攻勢の不当性を訴えて、8月までの予定だった資源探査を7月に終了させた。
中国側では、このように、海軍や海警船艇と連携し、時にそれらへの情報提供や補給も行う漁民を「海上民兵」とよんでいる。
中国の南シナ海進出は、この後も続く。2014年8月末ころから中国が占拠中のスプラトリー諸島の環礁で人工島造成のための急速な埋立て作業を行っていることと、一部の島礁で滑走路の建設を行っていることを、フィリピン政府が明らかにした。中国海軍はスプラトリー諸島のジョンソン南礁の埋立てを急速に進め、作業員用のコンテナ型宿舎設置や桟橋の建設、ヤシの植林まで行っていることが8月28日に報じられた。コンクリートミキサー車やブルドーザー、ダンプカー等の建設用車両が多数確認された。ガベン礁でも陸地の面積が広がり、大型船も近づけるようになった。11月には、ファイアリークロス礁でも埋立てが始まった。2015年3月にはスビ礁やミスチーフ礁、クアテロン礁、ヒューズ礁などでも埋立ての進行が確認された。
フィリピン政府は2015年3月に、常設仲裁裁判所に約3000ページの追加の証拠書類を提出して法による解決を訴え、フィリピン紙は7環礁での中国の埋立ての衛星写真を公表した。アメリカ政府は、中国による埋立ては国際ルールや規範を逸脱しているとたびたび非難し、同年10月27日にスプラトリー諸島のスビ礁(中国名、渚碧礁)の12海里内の海域でミサイル駆逐艦を航行させて「航行の自由」作戦を始め、中国が造成した人工島の「領海」を認めない意思を示した。「航行の自由」作戦は、その後、2016年3回、2017年4回、2018年5回、2019年8回、2020年9回と増加していくが、2021年には5回になり、その後2年間は毎年3回程度になっている。米海軍の「航行の自由」作戦の減少には、ウクライナや中東情勢の緊張が関係あるのかもしれない。
仲裁裁判所は、2016年7月12日に判決(裁定)を下した。それによると、中国の主張する、「九段線」の内側の歴史的権利は否定され、中国が南シナ海の島礁と水域や資源を排他的に支配してきたとする証拠はないとされた。判決は、国連海洋法条約121条(島の制度)の第3項を引き、「人間の居住または独自の経済生活を維持できない岩は、排他的経済水域や大陸棚を形成できない」として、スプラトリー諸島のいかなる島礁も延長した海域帯を形成できないとした。スプラトリー諸島を構成する島礁は、いずれも島として認められなかったのである。この判決は、これまでの、同法121条第1項の「高潮時においても水面上にある」という島の形状を重視する法解釈を認めなかった点で国際社会に衝撃を与えた。ある国際法学者がいうように、仲裁裁判所の判決はゲームのルールを変えるもの(game changer)であったといってよい。中国は、当然のことながらこの判決に反発し、南シナ海の島礁の埋立てを促進し、海警船、大型漁船による進出を強化した。
だが、アメリカのトランプ政権(2017年1月~2021年1月)が、南シナ海問題にあまり積極的に関与しなかったことと、フィリピンが親米のアキノ政権から親中のドゥテルテRodrigo Duterte(1945― )政権(2016年6月~2022年6月)に変わったことがあり、フィリピンはこの仲裁裁判の結果を外交に生かすことができず、同国海軍と沿岸警備隊もしばらく南シナ海問題で守勢にたたされた。変化が起きたのは、アメリカのバイデン政権がASEAN諸国を支援し始めた2021年2月以降であった。とくに親米のマルコスFerdinand Romualdez Marcos Jr.(1957― )政権が誕生してからは、フィリピンの沿岸警備隊は2023年9月にはスカボロー礁に中国が「浮遊障壁」を設置したと非難し、同月25日にこれを撤去した。また、スプラトリー諸島のセカンドトーマス礁に座礁させている戦車揚陸艦シエラ・マドレへの補給と錆(さび)止めや修理に力を入れ始め、2023年10月以降、中国海警が放水、船艇の衝突をしかけるなど、応酬が続いている。さらに、中比両国は、ユニオン堆のウイットサン礁(中国名、牛軛礁)の領有などでも対立しており、中国側は海上民兵が乗り組んでいるとみられる大型漁船を滞留させている。アメリカは米比合同軍事演習「バリカタン」などで、フィリピンへの支援を強化しており、日本も哨戒(しょうかい)機や車載型のレーダーの支援などでマルコス政権を支えている。
ベトナムは、2016年3月にカムラン湾を国際港とし、外国の軍艦、民間船舶をともに受け入れることを決めた。アメリカや日本との軍事交流に積極的で、2016年10月には米海軍のミサイル駆逐艦「ジョン・S・マケイン」、ほか1隻がカムラン湾に寄港した。また、2018年3月には米空母「カールビンソン」が中部のダナンに寄港している。さらに同年9月には海上自衛隊の潜水艦「くろしお」が、2023年6月には護衛艦「いずも」「さみだれ」も、カムラン湾に寄港している。占拠中のスプラトリー諸島の島礁で、2021年10月以降、埋立ても実施している。中国側は、こうしたベトナムの対応に不満で、ベトナムに圧力をかけ続けており、ベトナム国内では反中的な政策を推進してきた第一副首相のファム・ビン・ミンPham Binh Minh(1959― )らが汚職を理由に2022年12月に失脚させられ、現在は表向き、反中的な政策は目だたなくなっている(占拠中の島礁の埋立ては継続している)。ほかに、ASEAN側で南シナ海問題にかかわっているのは、ブルネイ、マレーシアであるが、小国のブルネイには目だった動きはない。マレーシアは、外交面では静かであるが、2021年1月にはサウス・ルコニア砂洲で、海上法令執行庁の船艇が中国海警船と対峙し、同年5月にはサラワクの上空で領空に接近した中国軍機に対してマレーシア空軍機がスクランブル発進して対応、6月にはサラワク沖で4000トン級の中国海警5403に9404総トンの支援艦を出して対抗するなどの措置をとっている。
南シナ海には、三つの重要性がある。第一に、既述のように豊富な漁業資源があり、沿岸域では、石油・天然ガス等のエネルギー資源の産出もある海域ということである。第二に、南シナ海は中国にとって、アメリカに対する核の第二撃能力(報復力)である、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM:submarine-launched ballistic missile)を搭載した戦略原潜を維持するための「聖域」でもある。そして第三に、世界の貿易貨物の3分の2、石油・天然ガスの約50%が通過する世界貿易の大動脈であり、日米などの多くの域外諸国にとって、その安全の確保が重要なシーレーンの要衝である。
中国は、この海域を譲ることのできない「核心的利益」と考え、領土主権問題で譲る姿勢をみせない一方、2013年10月に習近平はインドネシア訪問時の同国国会での演説で、「中国はASEAN諸国との海上協力を強化することを願っている。中国政府が設立した中国・ASEAN海上協力基金をうまく使い、海洋協力関係を発展させ、21世紀の海上シルクロードを共同で建設しよう」と提案している。経済協力で、ASEAN側を譲歩させようとしているのであり、港湾インフラなどの整備が遅れ、ASEAN経済共同体(AEC)の建設の目玉である連結性connectivityの実現に苦労しているインドネシアやマレーシアにとっては、海上シルクロードの提案には得がたい魅力もある。また、中国は南シナ海問題の当事者でないタイ、ラオス、カンボジアなどの大陸部のASEAN諸国とは、陸のシルクロード計画で経済・交通インフラ整備の協力を進めている。
一方、2016年7月に常設仲裁裁判所は、ほぼ全面的にフィリピン勝訴の判決(正確には裁定award)を下した。そこでは中国の主張する九段線は国際法上の根拠がないこと、また国際法上の島の定義においては、高潮時に水面上に出ているという形態よりも、自然条件下で外部の資源に頼らずに、人間の安定した共同体を維持でき、歴史的に経済活動が行われているという事象のほうを重視することが明らかにされた。その定義からみて、スプラトリー諸島の島礁のすべてについて、国際法上の島はない、と結論づけたのである。
資源問題、戦略原潜の問題、シーレーンの安全の問題は、南シナ海問題が、直接の係争当事者だけでなく、アジア太平洋地域の国際社会全体を巻き込む問題であることを示している。また、南シナ海問題と海陸のシルクロード計画(一帯一路)は、会議外交の場においてASEAN諸国の団結を揺るがしている。そして、仲裁裁判所の判決は、中国にとっての打撃であるとともに、ASEAN側の係争当事者にとっても、自らの主権主張を見直さざるを得ない重みをもっている。
2017年は、中国が南シナ海での新たな島礁の占拠は行わなかったため、中国との係争海域で漁業やエネルギー資源探査を実施したベトナムを除き、マレーシア、フィリピンは中国側との間で大きな摩擦はなかった。だが、中国海警船は相変わらずルコニア礁やスカボロー礁に現れ、居座っているし、中国はこれまでに占拠して埋め立てたスプラトリー諸島の人工島の軍備の拡張は続けている。2022年の後半以降は、親米のマルコス政権に変わったフィリピンと中国の関係は、セカンドトーマス礁やスカボロー礁での中国海警船による、フィリピンの巡視船などへの放水や衝突をめぐって悪化している。そして、中国はフィリピンを含むASEAN側係争当事国に海の現場で圧力をかけるとともに、エネルギー資源の共同開発や「21世紀海上シルクロード」建設に伴うインフラ整備、貿易投資の拡大をもちかけて、南シナ海問題での中国の主張への同意を、強引に取り付けようとしている。
これらに加えて、中国は南シナ海から米軍を追い出すことを念頭に、埋め立てた人工島や中国本土の諸省で対艦弾道ミサイルの配備を始めており、2020年8月の試射では、海南島とパラセル諸島の間の海域で、自動航行させた船舶を撃沈するまでになっている。これに対して、米軍はフィリピン国軍との演習を強化している。さらに、日米豪はフィリピンへの支援を明確にしており、2024年5月にはハワイで中国を名指しで批判する日米豪比4か国防衛相文書も出し、対決色を強めている。
ASEANと中国とのCOCをめぐる交渉は、2017年8月のASEAN・中国外相会議でその枠組みが了承されたが、このまま中国のペースで交渉が進めば、COCに法的な拘束力をもたせることはむずかしい。COCに南シナ海問題への法的な規制を望む、ASEAN側の声なき声に、日米を含む域外対話諸国がどうこたえるかが問われている。