政治家。東京都の生まれ。通商産業省(現、経済産業省)の官僚であった父、文武(ふみたけ)(1926―1992)の仕事の関係で1963年(昭和38)から3年間ニューヨークの現地校に通う。1978年に早稲田(わせだ)大学法学部に入学。1982年3月同大学卒業後、日本長期信用銀行(現、SBI新生銀行)に入行した。1987年3月、衆議院議員となっていた父の秘書となるために日本長期信用銀行を退行。1993年(平成5)の第40回衆議院議員総選挙に父の後継者として旧広島1区から出馬し当選。小選挙区比例代表制が導入された1996年総選挙では広島1区から出馬し、以来連続10期当選。自由民主党(自民党)では「宏池(こうち)会」に所属する。2007年(平成19)第一次安倍晋三(あべしんぞう)改造内閣で内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策等)として初入閣。次の福田康夫(やすお)内閣でも留任した。2012年10月、古賀誠(まこと)(1940― )の後を受けて第9代宏池会会長となる。2012年12月に成立した第二次安倍内閣で外務大臣に就任し、2017年8月に自民党政務調査会長になるまで、4年半以上外務大臣を務めた。外相時代の2015年12月には、日韓外相会談で従軍慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決するために、日本政府が元慰安婦を支援する財団に10億円を拠出することで合意した。2017年8月、政務調査会長に就任し「ポスト安倍晋三」に名のりをあげた。しかし、2018年9月の総裁選では出馬せず、3年後に安倍から「禅譲」されることを期待した。2020年(令和2)8月に安倍が病気を理由に退陣を表明した際、期待した禅譲は実現せず、9月1日に総裁選出馬を表明するものの官房長官の菅義偉(すがよしひで)に大差で敗れた。2021年8月、菅政権下で総裁選の日程が発表されるとただちに出馬を表明した。その後、菅が再選を断念したため、岸田、高市早苗(たかいちさなえ)(1961― )、河野太郎(こうのたろう)(1963― )、野田聖子(のだせいこ)(1960― )の4人による選挙戦となった。9月29日投票が行われ、第1回投票で第1位となった岸田は河野との決戦投票でも勝利し、第27代自民党総裁に就任した。
10月4日衆参両院での首班指名を受け、第100代内閣総理大臣となり第一次岸田内閣を発足させた。就任から10日で衆議院を解散し、10月31日に行われた総選挙では議席を減らしたものの、自民党単独で「絶対安定多数」を確保した。11月10日の衆参両院での首班指名を受け第101代内閣総理大臣となり、第二次岸田内閣を発足させた。岸田は「新しい資本主義を構築」し、「成長と分配の好循環を実現」すると述べ、安倍・菅政権との違いを強調した。所属する宏池会は党内第5派閥で党内基盤が弱いため、麻生(あそう)派、茂木(もてぎ)派に加え最大派閥の安倍派に依拠せざるを得ず、2022年7月8日に安倍が銃撃され死亡すると、世論の反発を押し切って国葬儀を強行した。しかし自民党と世界平和統一家庭連合(旧統一教会)との関係が明るみに出たころから内閣支持率が下降し始め、2023年11月に安倍派を中心とする、原則非課税の政治資金パーティーの売上金の一部を政治資金収支報告書に記載せず、派閥事務所や議員などが使ったりプールしたりしていた、いわゆる裏金事件が発覚すると支持率は20%台に低迷し、退陣まで回復することはなかった。円安・物価高の続くなか、2022年以降ガソリン代の補助、電気・ガス料金補助、定額減税など支持率回復のための施策を連発し、2024年1月には裏金問題によって派閥が世論の厳しい視線にさらされると、国民の政治への信頼を取り戻すためとして突如岸田派(宏池会)の解散を表明した。しかし衆議院議員の任期切れまで1年余りとなった2024年8月14日に臨時の記者会見を開き、9月の総裁選不出馬を表明。9月27日自民党総裁を退任し、10月1日内閣総辞職に伴い総理大臣を退任した。