中国、三国蜀(しょく)の丞相(じょうしょう)。字(あざな)は孔明(こうめい)。諡(おくりな)は忠武、武侯。琅邪(ろうや)陽都(山東省沂水(きすい)県)の人。早く父を失い、兄の瑾(きん)は呉(ご)に、亮は荊州(けいしゅう)に赴いた。襄陽(じょうよう)(湖北省)の西、隆中に住み、晴耕雨読、隆中吟を歌い自らを管仲(かんちゅう)、楽毅(がくき)に比し、人からは臥竜(がりゅう)と評された。劉表(りゅうひょう)を頼って荊州にきていた劉備(りゅうび)から、三顧(さんこ)の礼をとって迎えられ、備に天下三分の計を説き、その親密なこと君臣水魚の交わりと称される。曹操(そうそう)が南下して荊州を攻めると、孫権のもとに赴いて備と同盟してこれにあたることを説き、赤壁(せきへき)の戦いが行われた。続いて天下三分を実行すべく益州に赴くことを備に勧め、ついに益州の劉璋(りゅうしょう)を攻めて益州領有に成功したが、荊州は結局呉に奪われた。劉備が蜀を建てると丞相に任ぜられ、人心の宥和(ゆうわ)と内政の一新にあたった。備は死に臨んで後主劉禅(りゅうぜん)の補佐を委嘱している。亮は、荊州占領以来、国交の絶えていた呉との同盟を復活、また自ら軍を率いて南中(雲南)の平定にあたり、後顧の憂をなくしたあと、227年「出師(すいし)表」を上(たてまつ)って魏(ぎ)との戦いに北上した。「臣亮言う。先帝業を創(はじ)めいまだ半(なか)ばならざるに崩殂(ほうそ)したまえり」に始まる表は古来「読みて泣かざるものは忠臣にあらず」と評される名文である。第一次の戦いは馬謖(ばしょく)の敗北で失敗し、亮は泣いて馬謖を斬(き)った。その後数次にわたる北伐もついに成功せず、234年、五丈原(ごじょうげん)(陝西(せんせい)省)で宿敵司馬懿(しばい)との対陣中に没した。墓は定軍山にあり、成都に武侯祠堂(しどう)がある。