伝統的には、国家の地理的位置やそれを取りまく自然環境の決定論的な理解をもとに、大国間の政治的関係、とくに軍事的対立を含む外交の分析を行い、特定の国家の軍事・外交政策への応用を目ざす知識の形態をさす。その源流は19世紀末から20世紀初頭(第一次世界大戦以前)にさかのぼり、その名はスウェーデンの政治学者ルドルフ・チェレーンJohan Rudolf Kjellén(1864―1922)による造語「ゲオポリティークGeopolitik」に由来する。
チェレーンの地政学に影響を与えたのがドイツの地理学者フリードリッヒ・ラッツェルである。ラッツェルは、ダーウィンの進化論の影響を受け、民族の政治的発展は土地や環境の特性と深く関係し、そうした地理的条件を活用することで国家は領土を拡大できると主張した。また、諸国家は有機体のように可能な限り土地・資源を獲得しようとして戦争を永遠に続けると考え、獲得された空間は国家の生存にとって不可欠のものととらえた。こうした考え方はチェレーンを介して、 ナチス政権下でドイツ地政学を築いた軍人で地理学者のカール・ハウスホーファーに引き継がれる。
それに対して、戦略論的な地政学の基礎を築いたのが、イギリスの地理学者ハルフォード・マッキンダーHalford John Mackinder(1861―1947)である。マッキンダーは、自然環境と国家(民族集団)の興亡を大陸と海洋の配置からとらえ、ユーラシア大陸の内陸部(ハートランド)を支配するランドパワー(大陸国家)が大陸外縁部を囲むシーパワー(海洋国家)と対峙(たいじ)する世界像を描いた。マッキンダーの考え方は、アメリカの軍人で歴史学者のアルフレッド・セイヤー・マハンのシーパワー論の影響を受け、アメリカの政治学者ニコラス・スパイクマンNicholas Spykman(1893―1943)の勢力均衡論に継承された。
これらの地政学が各国の外交・軍事戦略にどの程度影響し、応用されたかはかならずしも明らかではないが、第二次世界大戦後、各国の学界が地政学から距離を置いたのに対して、アメリカの外交サークルでは地政学的思考が継承されていったと考えられる。ランドパワーとシーパワーとの対峙は、アメリカ合衆国と旧ソビエト連邦が対立した冷戦期の基本的な地政学的図式であった。今日においても2013年に中国が掲げた「一帯一路」構想と、日本がかかわる「自由で開かれたインド太平洋(Free and Open Indo-Pacific:FOIP)」戦略や「日米豪印戦略対話(Quadrilateral Security Dialogue:QUAD(クアッド))」との関係には、同様の対峙の図式がみて取れる。それはロシアのウクライナ侵攻や中ロ接近と相まって「新冷戦」ともよばれる。
一方、地政学はその疑似科学性が批判されてもきた。地政学は①不変的な自然環境を可変的な経済・技術的要因よりも重視する、②論者が帰属する国家(自国・自民族)を中心に立論する、そして③複雑な現実世界を単純化して表現する、という傾向がある。また、地政学は国家による軍事・外交政策への提言を指向するため、政治と学問との境界をあいまいにする危険性がある。
第二次世界大戦後の政治地理学では、地政学に実証的・批判的な検討が重ねられ、国際関係を資本主義的経済構造から分析する「新しい地政学」、地政学を国際政治にかかわる言語的表現としてとらえ、その社会的影響を検討する「批判地政学」、気候変動の国際関係への影響を吟味する「環境地政学」など、多様なアプローチが展開されてきた。また、地政学という用語を、学問分野ではなく、多様な主体による空間の占有や管理にかかわる政治的実践(ジオポリティクス、地政治)と再定義して用いる研究が、国際的に一般化しつつある。
他方、2010年代以降、日本では伝統的な地政学に立脚する一般向けの教養書の刊行が活発化している。その背景には、北朝鮮のミサイル発射、中国の海洋進出、さらにはロシアのウクライナ侵攻など、日本を取り巻く安全保障環境の緊迫化があると考えられる。こうした変化は、おのずと在日米軍の存在意義や自衛隊の国内配備をめぐる議論に影響を与え、琉球(りゅうきゅう)諸島を含む日本列島の防衛体制を再強化させる可能性をもつといえる。つまり、地政学はけっして過去のものではなく、陸・海・空をめぐる現代国際政治の実践、あるいはそこへの知的関与として理解されなければならないのである。