一般に、商品や製品の履歴や所在を把握できること。このことばは、自動車や電子部品、医薬品などを含む幅広い分野で用いられているが、ここでは代表的な食品トレーサビリティについて取り上げる。食品では、生産や流通の過程で各事業者が食品を取り扱う際に記録を作成・保存しておくことをさし、食中毒など健康に影響を与える事故が発生した際に、問題のある食品が「どこから来たのか(遡及(そきゅう))」、「どこに行ったのか(追跡)」を調べることができる仕組みである。「トレーサビリティtraceability」という用語は、英語で「追跡」を意味する「トレースtrace」と「能力」を意味する「アビリティability」に由来し、「追跡可能性」と訳される。農林水産省によると、食品トレーサビリティとは「食品の移動を把握できること」と定義されており、生産、処理・加工、流通・販売など、食品供給行程(フードサプライチェーン)の各段階における食品およびその関連情報を追跡・遡及できることを意味する。具体的には、各段階で仕入先や販売先などの記録を作成・保管し、識別番号などを用いて食品との関連性を確保することにより、流通経路や所在などを明らかにできる仕組みである。ただし、この仕組みはあくまで追跡・遡及を目的としており、製造工程での衛生管理を直接的に行うものではない。
トレーサビリティシステムを導入することによって得られるおもな利点は、以下のとおりである。
①食品の安全性に関する予期せぬ問題が発生した際、原因究明や問題食品の迅速かつ容易な回収が可能となる。
②消費者などへの食品の安全性や品質に関する情報提供に資するだけでなく、表示内容の確認が容易になることを通じて、表示への信頼性を高めることができる。
③生産者や食品事業者による製品管理や品質管理の向上、業務の効率化にも貢献する。
食品トレーサビリティに関する法律には次の二つがある。一つは、「牛の個体識別のための情報の管理及び伝達に関する特別措置法(牛トレーサビリティ法)」(平成15年法律第72号)である。2001年(平成13)に、国内初の牛海綿状脳症(BSE)が発生し、それを契機に牛肉のトレーサビリティの確立が求められた。その後、食肉流通業者やスーパーマーケットでの食肉の表示違反が社会問題となり、食肉業界では消費者の食肉に対する信頼回復が緊急の課題となった。国内で飼養されているすべての牛に一元管理に資する個体識別番号が記載された耳標(じひょう)が装着されることになり、2002年にその取り付け作業が終わり、農林水産省による「牛個体識別台帳」が作成された。そして、同年10月からはインターネットによってその情報を閲覧できる体制が整えられた。2003年6月には牛トレーサビリティ法が成立し、関連の政令・省令なども制定されて、同年12月より同法が生産段階で施行され、2004年12月からは、と畜以降の牛肉流通段階でも施行された。
もう一つの法律は、「米穀等の取引等に係る情報の記録及び産地情報の伝達に関する法律(米トレーサビリティ法)」(平成21年法律第26号)である。2008年9月に、残留基準を上回る農薬が検出されたり、カビ毒に汚染されるなどした非食用の米が、一部の米穀業者によって流通過程で食用として扱われていたことが発覚した。これを受けて、2009年4月に米トレーサビリティ法が公布され、2010年10月に施行された。対象品目となる米・米加工品の販売、輸入、加工、製造または提供の事業を行うすべての事業者(生産者を含む)が対象である。対象事業者は、米・米加工品の取引、事業者間の移動、廃棄などを行った場合には、その記録を作成して保存することと、事業者間および一般消費者への産地情報の伝達の義務が課せられている。
食品事業者において、万が一食品の安全性にかかわる問題が発生した場合、トレーサビリティシステムが確立されていなければ、問題のある製品の流通経路や対象範囲を正確に把握することができず、回収や廃棄に要するコストや時間が大幅に増加する。これにより、事業者にとって経済的な損失だけでなく、取引先や消費者からの信頼を失う重大なリスクを招く可能性もある。また、平常時においても記録や情報の蓄積は、製品の品質管理や業務効率化、表示の適正化にも寄与し、食品事業者全体の信頼性向上につながる。このように、消費者の安全と信頼を守るためにも、今後さらにトレーサビリティの重要性は高まっていくと考えられる。