売春を助長する行為等を処罰することによって、売春の防止を図ることを目的として、1956年(昭和31)5月24日に公布された法律。昭和31年法律第118号。完全施行は1958年4月1日。
この法律は、売春が人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗を乱すものであるという観点から、その第3条で「何人(なんぴと)も、売春をし、又はその相手方となつてはならない」と規定している。本法における「売春」とは、対償を受け、または受ける約束で、不特定の相手方と性交することをいう(2条)。この法律は、単なる売春行為やその相手方となること自体は処罰の対象とはしていない。しかし、公衆の目に触れるような方法で売春の相手方となるよう勧誘することは処罰の対象とされる(5条。勧誘等)。他方で、売春の相手方(買春した者)は処罰の対象とはされていない。そのほかの処罰対象の行為には、売春の周旋、売春目的の前貸・資金提供、売春をさせる契約、売春をさせる業など、売春を助長する行為がある(5条~14条)。
現行法は第1章「総則」、第2章「刑事処分」および附則からなるが、2022年(令和4)の改正前には、第3章「補導処分」、第4章「保護更生」が設けられており、売春を行うおそれのある女子に対する補導処分・保護更生の措置が明記されていた。
旧法の第3章「補導処分」では、勧誘等の罪(5条)を犯した満20歳以上の女子が有罪となり執行猶予がついた場合、婦人補導院で補導処分が科されることが規定されていた(17条~33条)。勧誘罪は性別を問わないが、補導処分に付されるのは女性のみであり、ジェンダー不平等な規定であったといえる。第3章の規定は、2022年改正法の施行によって廃止され、それに伴い「婦人補導院」も廃止された。
旧法の第4章「保護更生」では、性行または環境に照らして売春を行うおそれのある女子(要保護女子)に対して、婦人相談所、婦人相談員、婦人保護施設といった実施機関による保護更生の措置を講じていた(34条~40条)。これらの規定は、2022年5月25日公布の女性支援法(正式名称は「困難な問題を抱える女性への支援に関する法律」)に編入され、売春防止法から削除された。
1946年1月、連合国最高司令官総司令部(GHQ)は、公娼(こうしょう)制度はデモクラシーの理想に違背するという理由から、日本政府に対して「公娼制度の廃止に関する覚書」を発した。これに基づく法的措置として、1947年1月、勅令9号「婦女に売淫(ばいいん)をさせた者等の処罰に関する勅令」が発せられた。同勅令は、暴行または脅迫によらないで、女性を困惑させて売淫をさせた者、売淫を内容とする契約をさせた者に対する処罰が定められていたが、赤線地域などの集娼地区は取締り上黙認されていた。1951年9月に対日講和条約が署名されたことによって、既存の法令であった勅令9号が条約に適合しないなどの理由で無効化されることに対する危機感から、同年11月に「公娼制度復活反対協議会」(会長は久布白落実(くぶしろおちみ)。参加団体は日本キリスト教婦人矯風会(きょうふうかい)、日本婦人有権者同盟〈2016年解散〉、日本YWCA、大学婦人協会〈現、大学女性協会〉、日本婦人平和協会〈現、婦人国際平和自由連盟日本支部〉)が結成された。同会は、勅令9号を国内法とするよう約100万人の署名を集め、要望書を国会に提出するなど、活発に運動を展開した。こうした運動が功を奏し、1952年5月、勅令9号は国内法として存続することになった。同協議会は、同年12月には総勢23団体が参加した「売春禁止法制定促進委員会」(促進会)に発展し、売春禁止に関する単独法の成立を目ざし、世論の喚起、国会議員への働きかけなどの運動を展開した。
第二次世界大戦終戦後、初めて売春等処罰法案が国会に提出されたのは、1948年の第2回国会であった。同法案は、占領軍からの性病対策の要請を受けて政府から提出されたが、審議未了となった。その後、1953年の第15回国会、1954年の第19回国会・第21回国会、1955年の第22回国会に、議員立法として売春等処罰法案が提出されたが、いずれも成立しなかった。
一方で、1953年内閣に売春問題対策協議会が設置された。さらに、このころ鹿児島県で起きた通称「松元事件」(土木業者が賄賂(わいろ)として高校生を含む女性に売春をさせた事件)や、東京都で発覚した少女買春事件などを契機とした、売買春に対する世論の批判の高まりやメディアの注目、促進会などの売春に関する立法運動などを背景に、1956年3月には総理府に売春対策審議会が設置され、4月には答申を行った。同答申が売春防止法立案の基礎となり、1956年5月2日に第24回国会に政府から売春防止法案として提出され、同月24日に公布された。