《世界大百科事典》の編集方針について

編集長 加藤周一

現代は情報が多すぎて、また少なすぎる時代である

一般の市民は、新聞・雑誌・書籍・電波メディアの伝える情報の、いわば洪水のなかで暮らしている。限られた時間のなかで、どういう本を読むべきか。選択は必ずしも容易でない。しかも情報の量は、どの領域でも急速に増大し、新しい事実が知られ、新しい概念が導入され、新しい仮説が提案される。非専門家ばかりでなく、専門の研究者にとってさえも、追いついてゆくことがむずかしいだろう。

このような情報量の増大とその広範な伝達が成り立つための条件の一つが、政府機関や大企業が経営する大きな組織の活動であることは、いうまでもない。したがって、市民が受け取る情報のなかには、政治的または商業的な目的のために操作されたものもある。

受取り側は、どう反応することができるだろうか。もし右往左往して、しかも受身に操られることを望まないとすれば、多すぎる情報を整理しなければならないし、特にみずからの立場に従って整理しなければならないだろう。

情報または知識の蓄積の、もう一つの条件は、専門化である。研究者や技術者は、いよいよ細分化された領域で、またその領域でのみ仕事をする。そこでは、同じ領域の専門家の間でしか通用しない特殊な術語の体系も発達する。彼らの話は、素人にはわかりにくい。またたとえわかっても、市民が個人的にも、社会的にも、知りたいと思う事物の全体ではなくて、一面を語るにすぎない。情報の洪水のなかで、ほんとうに知りたいことについては、利用することのできる情報が、あまりにも少ないということになる。

そういう情報の不足に対応するためには、知りたい対象の全体を念頭におきながら、部分的な情報をまとめてゆくほかはない。また専門家に、情報の正確さを犠牲にしないままで、しかもわかりやすく話すくふうを求めるほかはないだろう。

百科事典が、このような現代社会の要請に応じるためには、従来の百科事典の改訂ではなくて、まったく新たに編集の方針そのものを考えなおす必要がある。この百科事典が、多すぎる情報を整理し、細分化された知識をまとめ、専門家の表現を非専門家にわかりやすくするために採用した方針は、次のようなものである。


整理のために

1――知識の体系については、中心的な概念の説明を重んじ、技術については、その原理を重んじた。たとえばコンピューターについて、論理回路の意味を懇切ていねいに解説し、その技術的な細部や応用範囲をできるだけ簡潔に述べる。これは幹と枝葉とをはっきり区別するということである。たとえ枝葉にめざましい変化があっても幹は変わらないから、この方針は、日進月歩の領域で、この事典の記述が古くならないということをも意味するだろう。

2――事典は執筆者または編集者の意見を発表するための機関ではない。しかし特定の立場をとらずに情報を整理することはできないだろう。この事典が基本的な立場としたのは、平和と民主主義と人権の擁護である。

3――また地域的には、日本を中心として、近きより遠きへ及ぼした。項目は、日本に近いほど多く、記述は、原則として、日本とのかかわりの深いほど詳細である。たとえば朝鮮半島の歴史・文化・社会にかかわる項目は、過去および現在の日本語によるあらゆる百科事典のそれよりも、はるかに多くを採る。また、たとえば西洋の人物や事件については、その日本とのかかわり(作品の翻訳、事件の影響など)をできるかぎり詳しく述べる。

4――整理とは分類であるが、この事典での分類は、必ずしも従来の慣習に従わず、しばしば叙述の効率を基準として、新しい分け方を用いた。たとえば、〈アメリカ合衆国〉という国名での記述を抑えて、地域や大都市の項目の記述を豊富にする。この方法は、またたとえばアフリカ大陸についても有効であろう。国境の意味は、人種的・文化的・言語学的・宗教的に、必ずしも決定的でない。


まとめのために

1――同じ地域の問題を扱うのに、専門領域を異にする委員会の学際的討議を重んじた。互いに関係のない専門的知識の並列ではなくて、その間の関係を求め、対象の全体が見失われないように努めたのである。

2――また地域に限らず、他の項目、特にたとえば動植物の名前などについても学際的な記述を重んじた。したがってこの事典は、動物学者の述べる〈鶴〉に満足せず、同時に民俗学者の語る日本の伝説のなかでの〈鶴〉を併記する。〈鶴〉に関する知識を、たとえば《夕鶴》の理解にも役だちうるようにまとめようとした。

3――事実と仮説とを区別したうえでそれを関連づけ、歴史と伝説とを峻別したうえでその関係を説明しようとした。伝説の重要さには特別の注意を払う。たとえば歴史的事実のほとんど何も知られていない小野小町や弁慶の伝説的人物としての役割を詳述する。


わかりやすさのために

1――科学技術上の概念を厳密に定義するためには術語を用いなければならない。しかしそういう定義に立ち入る前に、術語を知らない読者にも、近似的な理解、あるいは大づかみな要領の会得が可能になるような説明を与えることにした。今までの百科事典の、正確ではあっても難解な記述に閉口した経験のある読者は、この事典を見て、科学技術上の用語のおよその意味をたちどころに把握できることに、驚くだろう。

2――歴史的に、また地域的に、意味を異にする言葉がある。そういう言葉については、語義の変遷や地域差にも立ち入って説明することにした。その言葉を用いた本文の解釈を正確にするために役だつはずである。

編集の方針は以上のとおりである。それがどの程度に実現されているかは、事典を利用する方々の判断にまつほかはない。この事典は、専門領域以外の事物について、早く、正確な情報を得たいと思う日本国民のだれでも利用することのできる道具である。道具が役にたつだろうことを切に願う。

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