運動競技の一つ。一塁,二塁,三塁,本塁と四つの塁(ベース)を使用するところからベースボールbaseballと呼ばれ,日本で野球と訳された。訳語をつくったのは中馬庚(ちゆうまかのえ)である。アメリカでは別名ボールゲームという。1チーム9人の選手で編成された二つのチームの間で,より多くの得点を記録して勝つことを目的とする。このスポーツはアメリカの国技で,その普及はめざましく,中南米,キューバなどカリブ海諸国,アジア,オーストラリアさらにヨーロッパまで広がっている。日本はアメリカに次ぐ盛んな国で,プロ野球をはじめ,社会人,大学,高校,リトルリーグなど底辺は広い。国際野球連盟Internationale Baseball Federation(IBF)には,2006年現在で112の国と地域が参加している。
1907年,アメリカのナショナル・リーグのミルズ会長を委員長とする6人の委員で〈ベースボール起源調査委員会〉がつくられた。この委員会は,もと投手で当時アメリカで最大の運動具商のスポルディングAlbert Goodwill Spalding(1850-1915)が依頼して構成されたといわれる。調査委は,野球はアメリカで生まれたものであり,1839年にダブルデー少将Abner Doubledayが考案し,最初のゲームはニューヨーク州の郊外クーパーズタウンで行われた,と結論を出した。クーパーズタウンには,現在野球殿堂が建てられている。しかし,野球の起源をたどると,すでに1744年にイギリスで出版されたJ.ニューベリーの子ども向けの《かわいいきれいなポケットブック》の中にbase-ballの語が出ていることが明らかになった。これはラウンダーズroundersという,クリケットから派生した子どもの遊びをさし,クリケット同様に18世紀にはアメリカにもちこまれていたと思われる。ラウンダーズは1チーム9人の2チームが,ボールとバット(スティック)を用いてラウンダー(四つのポストを一周すること)を争うもので,野球のベースをやや変形した位置に木の棒(ポスト)を立てる。また,アメリカで生まれたといわれる遊びの中にも,ワナキャットone old catなど,野球の要素を含んだものがあり,結局,これらのボールとバットとベースを用いるゲームが集約され,19世紀前半にベースボールが成立したというのが現在の定説になっている。
初めは人数もまちまちでルールも単純だったが,1839年のA.ダブルデーを経て,45年カートライトAlexander Cartwrightにより,ニューヨークに最初の野球チーム〈ニッカーボッカー野球協会〉が編成され,同時に15条からなる〈ニッカーボッカー規則〉が定められた。その規則のおもなものは,(1)塁間は本塁から二塁,一塁から三塁までがそれぞれ42歩(正方形のフィールド),(2)21点を記録して勝負が決まる,(3)投手は下から投げる,(4)3人アウトで攻守交代,(5)判定はすべて審判が行い,アピールは許されないなどで,この規則によって今日の野球への第一歩がふみ出された。翌46年に〈ニューヨーク・クラブ〉というチームとの間で初のクラブ対抗戦が行われ,ニューヨーク・クラブが23対1で勝っている。このころは野球は上流社会のスポーツで,メンバーは銀行や保険会社の役員などに制限されていた。しかし,50年代に入ると,商人や店員など一般庶民が参加し,52年から55年の間にニューヨークとその周辺で7チームが誕生した。こうして年々盛んになるにつれて,1853年には試合の結果が新聞に載り,56年にはゲーム内容を紹介する新聞も現れた。57年ニューヨーク地区の球団代表者たちは〈全国野球選手協会〉を設立し,以後ルールも,(1)1試合を9イニングスとする(1857),(2)投手の投球に対してストライク,ボールを宣告する,(3)ボール21で一塁を与える(以上,1863)など細かく決められた。58年には入場料を取って見せる試合が初めて行われ,野球が職業,商売として成り立つきっかけを示した。60年には西海岸のサンフランシスコにもチームができ,この年は62チームを数えた。
大学スポーツとしても野球は人気を得た。最初の大学対抗試合は1859年7月に行われ,アマースト大が66対32でウィリアムズ大に勝った。大学のスポーツ史では,野球はボートレースに次ぐ古いスポーツである。61年から始まった南北戦争は,63年にチーム数を28までに減少させたが,この戦争に駆り出された東部,北部の選手たちがボールをしのばせて戦場に赴いたことで,多くの人たちが野球という新しいスポーツを覚えて故郷に帰った。64年ブルックリンのA.J.リーチという選手が,他チームから移籍を求められて金銭を要求し,初めて〈給料を取る選手〉となった。これがきっかけで,69年〈シンシナティ・レッドストッキングズ〉と名のる史上初のプロ野球球団が出現し,5月15日にプロ野球として最初の試合をオハイオ州で行い,41対7で相手のアンティアックに勝った。レッドストッキングズは翌70年まで130連勝を記録した。
こうして1871年には9球団で〈ナショナル・アソシエーション〉が結成され,76年には再編成が行われ,8都市の球団が加盟して〈ナショナル・リーグ〉が誕生した。これに対抗する形で82-91年に〈アメリカン・アソシエーション〉,84年に〈ユニオン・アソシエーション〉,90年には〈プレーヤーズ・リーグ〉が出現した。後2者はそれぞれ1年で解散され,92年以後はナ・リーグのみが残った。1900年,マイナー・リーグだった〈ウェスタン・リーグ〉が〈アメリカン・リーグ〉と改称し,翌年からリーグ戦を行ってナ・リーグと対立した。当時はそれぞれ8球団で,観客はナ・リーグが190万人,ア・リーグが170万人を動員し,上々のすべり出しだった。03年には両リーグ間の調停のためナショナルコミッションが生まれ,その結果各リーグの優勝チームで争う〈ワールド・シリーズ〉が開かれるようになった。第1回はア・リーグのボストン・レッドソックスが5勝3敗でナ・リーグのピッツバーグ・パイレーツを下し,ここに2メジャー・リーグ制は確立した。14年には〈フェデラル・リーグ〉がメジャー・リーグとして設立されたが,2シーズンしか続かなかった。
1919年のワールド・シリーズはシンシナティ・レッズ(ナ・リーグ)とシカゴ・ホワイトソックス(ア・リーグ)で争われたが,予想に反しレッズが5勝3敗で勝ったため,ホワイトソックスは野球賭博にからんで八百長試合をしたといううわさが流れた。調査の結果8選手が告発されたが立証できず,21年シカゴ高等裁判所は全員無罪の判決を下した。これが〈ブラックソックス事件〉である。これを機に大きな裁量権をもつコミッショナー制が設けられ,20年12月,連邦裁判所判事K.M.ランディスが就任した。同年はニューヨーク・ヤンキースに移籍したベーブ・ルース(B.ルース)が本塁打を量産して注目を集めた年であったが,事件のしこりは観客動員数の減少をもたらした。ランディスは疑惑の8選手を永久追放にし,この厳しさがファンの信頼をとりもどすことになった。また,21年のワールド・シリーズからラジオ実況中継も始まり,29年にヤンキースが背番号を採用(前例はある)して新鮮味を加えた。33年には一少年の投書がきっかけで,〈夢の球宴〉といわれるオールスター・ゲームが開設された。20世紀前半の名選手にはタイ・カッブ,ベーブ・ルース,L.ゲーリッグらがいる。
第2次大戦後の話題の一つは,1945年にドジャースのB.リッキー会長に見込まれ契約し,47年一軍入りして大リーグ初の黒人選手となった内野手J.ロビンソンである。激しい人種差別の中で好成績をあげてナ・リーグ新人王となり,以後W.メーズやH.アーロンなど多くの黒人選手が活躍する道をひらいた。すでに1885年には黒人のプロチーム〈キューバン・ジャイアンツ〉がつくられ,1920年には黒人ナショナル・リーグが結成されて,優秀な選手が出現しているが,その中の一人,サッチェル・ページ投手も48年にクリーブランド・インディアンズに入っている。やがて大リーグのすべてのチームに黒人が加わるに及び,いくつかあった黒人だけのリーグは人気を失っていった。
大リーグの野球が企業として完全に成功すると,それまで東部中心だった球団を西部にも置くことになり,1958年にドジャースがロサンゼルスへ,ジャイアンツがサンフランシスコへ本拠地(フランチャイズ)を移した。それとともに新しいファンが開拓され,球団数も増加し,61年にア・リーグ,62年にナ・リーグが2球団を加えてともに10球団となり,69年には両リーグともさらに2球団増やすと同時に〈東西地区制〉をとるようになった(ア・リーグは1977年から14球団)。93年からナ・リーグに2球団増えて両リーグ各14球団となったのを機に3地区制(東,中,西)とし,さらに,地区優勝シリーズを加える方式をとった。2008年現在,ナ・リーグは16球団,ア・リーグは14球団の計30球団で,それぞれアメリカ合衆国の17の州,およびワシントン・コロンビア特別区,カナダの1州に本拠地を置いている。このうちカナダにはブルージェイズ(トロント)が置かれている。球団が増えるとともに,有望選手獲得のためには大金を出すようになり,64年にはエンジェルズが大学の選手に20万ドルという破格の契約金を支払った。これがきっかけとなって選手を順番に指名するドラフト制度が採用されたが,しかしこれに対しては個人の自由を妨げるとして訴訟もたびたび行われ,75年には契約なしでプレーして翌年は自由に移籍するものも現れた。いまや年俸1000万ドルの選手も珍しくない。
→アメリカ大リーグ
1871年(明治4),東京神田の南校(のちの東京大学)の教師としてアメリカから来日したウィルソンH.Wilson(当時28歳)が,日本で初めて野球を教えたといわれる。73年にはA.ベーツが芝の開拓使仮学校で学生の試合を指導した。77年アメリカ留学から帰国した鉄道技師の平岡吟舟(煕(ひろし))が本場仕込みの野球を紹介,翌78年には外国人技師もまじえたチーム〈新橋俱楽部〉(愛称はアスレチックス)を組織し,ユニフォームをつけて試合を行った。また平岡の知遇のあるスポルディングから各種の用具の寄贈を受け,専用グラウンドもつくって気をはいたが,87年に平岡の退職とともに解散した。そのころまでには駒場の農科大学,白金の明治学院などの強いチームのほか,青山学院,慶応義塾,三高,同志社などのチームが育っていた。90年5月に一高対明治学院の試合が行われたが,そのとき優勢だった明治学院の教師インブレーが一高グラウンドの垣根をとび越えたことが原因で暴行を受け,大騒ぎとなった。しかし,この事件を境に一高は奮起して,国内に敵なしといわれる名声を得,96年には横浜の外人チームと対戦して大勝した。97年には中馬庚が日本人による最初の野球指導書《野球》を著し,このころには中学でも野球が行われるようになっていた。1901年に結成された早稲田大学チームは,03年に最初の対慶応義塾戦を行い,日露戦争の最中の05年には渡米して多くの知識をもち帰った。07年には慶応義塾が初の外来チームであるハワイのセント・ルイス・チームを招待し,翌08年には初のプロ選手で編成されたリーチ・オール・アメリカンが来日するなど,日米の交流が盛んになった。13年には世界巡業中のニューヨーク・ジャイアンツとシカゴ・ホワイトソックスが来日し,大リーガーの実力を披露した。
野球はすさまじい勢いで普及し,1915年に中等学校野球大会(高校野球),25年東京六大学野球リーグ戦,27年全国都市対抗(社会人野球)が始まった。甲子園球場,明治神宮野球場などもつくられ,野球の発展に寄与した。31年にアメリカ大リーグ選抜チームが来日,17戦全勝という強さを発揮した。32年に文部省による野球統制令が出されたため,34年来日したベーブ・ルース,ゲーリッグらを中心とする大リーグのオールスター・チームと対戦するのはプロチームに限られ,そのときの全日本チーム〈大日本東京野球俱楽部〉が日本初のプロ球団となった。メンバーには主将の久慈次郎捕手,ルースから三振を奪った沢村栄治投手,ビクトル・スタルヒン投手,内野手に三原脩,苅田久徳,外野手に二出川延明,中島治康らがいた。このチームは35年に渡米,F.オドゥールから〈東京ジャイアンツ〉のニックネームをつけてもらった。これが現在の読売巨人軍(読売新聞社)である。同35年末には大阪タイガース(阪神電鉄),36年には名古屋軍(新愛知新聞社),名古屋金鯱(きんこ)軍(名古屋新聞社),東京セネタース(西武鉄道),阪急軍(阪急電鉄),大東京軍(国民新聞社)が発足し,全7球団で〈日本職業野球連盟〉が結成された。36年2月9日の巨人対金鯱戦(名古屋鳴海球場)が日本におけるプロ野球第1戦となった。このときは春,秋の2シーズン制で,39年から1シーズン制となった。第2次大戦参戦によって40年には野球に関する英語使用が禁止となり,球団名称が日本語に,ユニフォームのマークも日本文字となった。それは43年に規則用語にまで及び,審判はストライク(正球)を〈よし,一本〉,アウト(無為)を〈ひけ〉といった。45年1月1日から5日間,計8500人の観衆を集めて甲子園球場で行われた在阪4球団の試合を最後にプロ野球は中止となったが,敗戦直後の45年11月23日には神宮球場で東西対抗が行われ,再建の第一歩を印した。この試合でデビューした青バットの大下弘は,赤バットの川上哲治とならんでホームランのヒーローとなった。戦時中の日本野球報国会が日本野球連盟として再発足し,翌46年にはペナントレースが復活した。47年には,大塚アスレチックス,結城グリーンパーク,宇高レッドソックス,唐崎クラウンスの4球団が〈国民野球連盟〉を結成した。専属の球場がないこともあって,わずか半年で解散したが,選手の引抜きなどの動きを示したため,日本野球連盟は対抗上,〈野球協約〉を作成し,選手会との間で締結した。これが野球界の近代化の第一歩となった。
第2次大戦後初の外国チーム,アメリカのサンフランシスコ・シールズ(3Aのパシフィックコースト・リーグ所属)が来日した1949年の秋,日本野球連盟は解散し,セントラル・リーグとパシフィック・リーグが結成され,50年春からセ・リーグは8球団,パ・リーグは7球団でスタート,両リーグの優勝チームで日本シリーズを行うことになった。第1回の日本シリーズ(当時は日本ワールドシリーズと呼んだ)は,パ・リーグの毎日オリオンズがセ・リーグの松竹ロビンスを4勝2敗で破り,初の日本選手権を獲得した。51年にはオールスター・ゲームも開始された。51-53年は水原茂監督ひきいる巨人軍が川上,青田昇,千葉茂,別所毅彦,大友工,藤本英雄らを擁して日本一の座につき,56-58年は三原脩監督ひきいる西鉄ライオンズが,エースの稲尾和久をはじめ中西太,大下などを打撃陣にそろえて3連覇を果たした。59年の巨人対阪神のいわゆる〈天覧試合〉では巨人のルーキー王貞治が本塁打を打ち,入団2年目の長島茂雄の打球はさよなら本塁打となってファンをわかせた。この王,長島は〈ON砲〉といわれ,川上監督ひきいる巨人軍の9年連続日本一(1965-73)に大きく貢献した。
1969年にはオートレースもからんだ八百長の疑いで,西鉄の永易将之投手(永久追放)らによる〈黒い霧事件〉がもち上がり,また,77年のドラフト会議でクラウンライター・ライオンズに指名された法政大学の江川卓投手が入団を拒否,78年のドラフト会議前日に巨人軍と契約を交わし,結局79年江川を指名した阪神から巨人へのトレードという形で決着したスキャンダルがあった。その後,ドラフト制度で新人選手が球団を指名する逆指名制,さらに93年のシーズン終了後には,選手に移籍の自由を与えるフリーエージェント制度(FA制度)を設定するなど近代化を図った。フリーエージェントの資格は〈一軍出場登録〉が1シーズン145日を満たし,10シーズン(現在は9シーズンで,日本国内での場合は8シーズン)に達した者で,FA宣言選手と契約した球団は旧所属球団に金銭と人的な補償を行う。最初の年は60選手が資格を得たが,FAを宣言した選手は中日から巨人に移った落合博満ら5人だった。ファンの数は着実に伸び,入場者数はセ・リーグが1950年に240万人,57年に500万人,73年700万人,79年1000万人,92年1300万人を突破,パ・リーグが1950年170万人,73年400万人,79年500万人,91年900万人台となっている。
日本の球団は企業の一部門として存在し,親会社の宣伝をすることが大きな役割となっている。そのため球団は主として企業名で呼ばれ,これにニックネームが加えられる。球団の収入源は入場料金,ラジオ・テレビの放送権,商標権など,支出は選手の年俸をはじめとする人件費が大きい。各球団は毎年加盟金を支払ってリーグに加盟し,ペナントレースを行う。リーグの上位3球団には分配金が出る。また公式戦やオープン戦の収益は本拠地球団に入る。オールスター・ゲームや日本シリーズの収益は選手の養老年金などにあてられる。
アメリカの大リーグの場合は,1人あるいは複数のオーナーが資本金を出して球団を経営し,独立採算制である。完全なフランチャイズ制で,球団は本拠地の地名とニックネームで呼ばれる。球団収入は日本の場合と同様であるが,駐車場の料金がこれに加わる。ニューヨークやシカゴなどではリーグの異なる球団がともに本拠地としている例があるが,試合日程が重ならないよう配慮される。公式戦はすべて本拠地で行われ,日本のような地方ゲームはない。
1チーム9人の2チームが交互に攻撃と守備を行い,攻撃側の打者3人がアウトになると攻守を交代する。攻撃と守備それぞれ1回を合わせて回(イニング)とし,原則として試合は時間に関係なく9回で終わり,得点の合計の多い方が勝者となる。9回を終わって同点の場合は,原則として,一方が勝ちこすまで試合を続ける(プロ野球には時間・回数制限がある)。攻撃側は打者(バッター)の打順を組み,途中での変更はできない。守備側は守備位置によって(1)投手(ピッチャー),(2)捕手(キャッチャー),(3)一塁手(ファースト・ベースマン,略してファースト),(4)二塁手(セカンド),(5)三塁手(サード),(6)遊撃手(ショートストップ,略してショート),(7)左翼手(レフト・フィールダー,略してレフト),(8)中堅手(センター),(9)右翼手(ライト)と呼ばれる。数字で略記されることもある。
試合前に提出された両軍の打順表(守備位置も明記)によって,攻撃側の第1打者から打席(バッターズボックス)に入り,投手の投球を待つ。投げられたボールを打ったときは,ボールが地面に触れる前に守備側に捕られるとアウト,ファウルラインの内側で地面に触れ,しかもボールが一塁へ送られる前に打者が一塁へ達していればヒットといい,セーフとなる。打者が各塁を一周して本塁に達することができた安打を本塁打(ホームラン)という。ボールが地面に触れてから内野でファウルラインの外側に出たとき,ファウルラインの外側へ直接落ちたときはファウルとする。高く上がった打球を飛球(フライ)といい,地面に触れる前に捕球されたときはアウトとする。打者が投球されたボールを打たなかった場合,ストライクゾーン(ひざからわきの下までの高さでホームプレート上を通過する範囲)ならばストライク,それ以外はボールとなるが,空振りはストライクと数える。3ストライクになると打者は〈三振〉でアウト,4ボールは〈四球〉ともいって,打者は一塁へ進む。ファウルもストライクに数えるが,2ストライク以後のファウルはバントの場合を除いて加算しない。投球が打者の身体に直接当たったときは死球(デッドボール,正しくはヒット・バイ・ピッチ)と称し,打者は一塁へ進む。塁へ出た打者は走者(ランナー)となり,ボールを持った守備側にタッチされないかぎり自由に次の塁へ進むことができる。こうしてアウトになる前に,走者が二塁,三塁を経て本塁へ帰ると1点となる。ただし,打者がファウルラインの内側にグラウンダー(いわゆるゴロ)を打ったとき,その打者またはすぐあとの走者が自分の占めていた塁へ進んでくる場合,走者は次の塁へ進む義務があり,次塁へ着く前にボールが塁へ送球されると封殺(フォースアウト)となって走者は退く。打者がフライを打って捕球されたときは,塁上の走者は元の塁へ戻る。戻る前に送球されると走者もアウトとなる。守備位置の変更は自由で,選手交替も認められるが,一度退いた選手は以後その試合に出場できない。
審判(アンパイア)は本塁のうしろにいる主審(球審)を中心に,一塁,二塁,三塁の副審(塁審)の4人で構成される。夜間試合(ナイター)やワールド・シリーズなどでは,左右両翼のファウルラインの端に2人の線審を追加して置く。
野球場の四つの塁(本塁,一~三塁)を90フィート(27.43m)の直線で結んだ正方形(ダイヤモンド)を基本に,内野(インフィールド),外野(アウトフィールド),あるいはファウルラインの内(フェア地域)と外(ファウル地域)からなる。ファウルラインからスタンドまたは柵(フェンス)までは60フィート(18.29m)以上,本塁から外野フェンスまでは250フィート(76.20m)以上とする。本塁と二塁を結ぶ直線上の本塁から60フィート6インチ(18.44m)のところに投手板(ピッチャーズプレート)を設ける。縦6インチ(15cm),横24インチ(61cm)の白色ゴム板で,マウンドを築いてホームプレートより10インチ(25.4cm)高くする。ホームプレートは白色ゴム板,他のベースは詰物入り布製である。
ボールはゴムまたはコルクなどの芯に毛糸と綿糸を巻きつけ,馬革で包んだものを用いる。重量5~51/4オンス(141.8~148.8g),周囲9~91/4インチ(22.9~23.5cm)で,高さ13.4フィート(3.97m)のところから大理石の板上に落としたとき,4.7~5フィート(1.47~1.52m)の高さまではずむものとする。
バットは長さ42インチ(1.07m)以下,最も太い部分の直径が23/4インチ(7cm)以下の木製のものとする。金属バットは耐久力があるためアマチュア野球では連盟の承認によって使用されている。グラブ,捕手用ミット,ファーストミットには重量の制限はないが大きさに制限があり,投手用のグラブは単色とし白または灰色は認められない。なお捕手は身体保護のためマスク,プロテクター,レガーズを使用する。
アピールプレー
攻撃側チームのルールに反した行為を守備側チームが審判にアピールすることでアウトになるプレー。審判は攻撃側のルール違反を知っていても,アピールがなければアウトを宣告できない。(1)飛球の捕球後に,走者が触塁(リタッチ)しなかった場合,(2)走者が進塁または逆走に際し,塁に触れなかった場合,(3)走者が一塁をオーバーし,帰塁前にタッチされた場合,(4)走者が本塁を触れず,また触れなおそうとしないとき,本塁にタッチされた場合,(5)打撃順を間違えて打ち終わった場合。
イリーガリーバッテッドボール
不正打球,反則打球ともいう。打者が片足または両足を完全にバッタースボックス外において打った打球。または反則バットで打った打球。いずれも打者はアウトになる。
イリーガルピッチ
不正投球,反則投球ともいう。投手が,(1)投手板に触れないで投球した場合,(2)ボールに異物をつけたり,加工したりして投球した場合,(3)打者の虚をつく投球(クイックリターンピッチ)をした場合,イリーガルピッチとなり,走者がいればボークとなり,走者がいなければ投球はボールになる。なお日本のプロ野球では20秒ルール(走者がいない場合に投手はボールを受けてから20秒以内に打者に投球しなければならない)を採用しており,この違反はイリーガルピッチと同じ扱いにしている。
インフィールドフライ
無死または1死で走者が一,二塁あるいは満塁の場合,打者の打ったフライ(ライナーおよびバントを企ててフライになったものは除く)が内野手の守備範囲(内野手がふつうの守備行為をすれば捕球できる範囲)に上がったとき,審判員の宣告でインフィールドフライが成立し,打者のみアウトになる。故意に落球して併殺をねらうことを避けるルール。
永久欠番
プロ野球独特の慣習。球団が功績のあった選手をたたえるため,その背番号を留保し,他の選手に与えないこと。
カーブ
ボールに回転を与える投手の投球。右投手の場合は投手から見て左へ曲がる。
キーストーン
二塁ベースのこと。二塁手と遊撃手をキーストーンコンビという。
クラッチヒッター
好機に強い打者。
グランドスラム
満塁ホームラン。
クリーンアップ
片づける,掃除するという意味で,長打をはなって塁上の走者を一掃すること。打順が3,4,5番の打者をクリーンアップトリオという。
ゲーム差
リーグ戦で上位チームと下位チームの勝敗の差を表すめやす。ゲーム差={(勝利数の差)-(敗戦数の差)}×1/2。
コーナーストーン
捕手のこと。捕手がチーム全体の土台石(コーナーストーン)の役目を果たすことによる。
コールドゲーム
両チームが5回以上の攻撃をすませたのち,降雨,日没などにより試合続行不可能なとき,主審が試合終了を宣告し,それまでの得点で勝敗を決定する試合。5回終了以前に試合続行不可能な場合,主審が試合終了を宣告するとノーゲームになる。
サイクルヒット
1人の打者が1試合で単打,二塁打,三塁打,本塁打(順不同でよい)を打つこと。
サウスポー
左投手のこと。語源は不明。
サスペンデッドゲーム
後日に引き続き行うことにして一時停止された試合のこと。
さよなら本塁打
勝敗を決め試合を終了させる本塁打。英語でゲーム・ウイニング・ホームランというが,サヨナラ・ホームランも使われている。
三冠王
トリプルクラウンともいう。首位打者,本塁打王,打点王の三つを1人で独占した者。
指名打者
DH(designated hitterの略)ともいう。守備につかない打撃専門の選手で,10人目の選手としてラインアップに登録する。ふつう投手の代りに入ることが多い。1973年アメリカン・リーグで初採用し,日本でも75年からパシフィック・リーグで採用した。
シュート
ボールに回転を与える投手の投球。カーブとは逆,右投手の場合は投手から見て右へ曲がる。アメリカではスクリューボールと呼ばれる。
守備妨害
守備側選手のプレーに対し攻撃側選手が妨害,じゃま,混乱,障害などを行うプレー。審判はそのプレーに対し,打者または走者にアウトを宣告するとともに,他の走者にはとくに規定された場合を除いて妨害が起こる前に踏んでいた塁に戻す。
シンカー
ボールにあまり回転を与えないように投げる投手の投球で,打者の手もとで沈む球になる。
スイッチヒッター
左右どちらの打席ででも打てる打者。
スクイズ
走者が三塁にいるとき,投手の投球と同時に走者が走り,打者がバントして得点するプレー。
スピットボール
ボールにつば(唾液)をつけて投げる投手の変化球。ボールに泥をつけるマッドボール,ボールの表面をグラブやユニフォームでこすってつるつるにするシャインボールなどと同様に反則投球である。
スライダー
横滑り(スライド)するように水平に曲がる投手の投球。ボールの握り,回転はカーブと同じだが,ボールを離すときの指の使い方,手首のひねり方を変えてスライダー投法をくふうする。
スラッガー
強打者のこと。
セーブ
救援投手の功績をはっきりと記録に残す制度。チームがリードしているときにリリーフし,リードを保つのに有効なピッチングをしたのにもかかわらず勝利投手になれなかったときにセーブの記録が与えられる。救援勝利と合わせたものがセーブポイントとなる。日本では1974年から採用されている。
走塁妨害
オブストラクションともいう。野手がボールを持たないときか,ボールを処理する行為をしていないとき,走者の走塁を妨害する行為。走塁を妨害された走者にプレーが行われている場合か,打者走者が一塁に達する前に妨害された場合は,ボールデッドとなり,塁上の各走者は妨害がなかったら進塁できたであろう塁まで進塁が許され,妨害された走者には少なくとも一つ先の進塁が許される。妨害された走者にプレーが行われていない場合は,すべてのプレーが終わるまで続け,プレーの終わったのち審判がタイムをかけて妨害による走者の不利益を取り除く。
打撃妨害
守備側選手(おもに捕手)が打者の打撃を妨害する行為。罰則として一塁が与えられる。しかし同点でむかえた9回裏1死走者三塁のとき,打者が外野に犠牲フライになるような打球を上げた場合,たまたま捕手のミットにバットが触れて打撃妨害になると,三塁走者は進塁できない。そのため,1962年から〈妨害行為に対する罰則の代りに,そのプレーをそのままにしておきたいと主審に要求できる〉という規則が加えられた。
チェンジアップ
投手が速球を投げるときと同じようなモーションで打者のタイミングをはずそうとして投げる緩い変化球のこと。
テキサスヒット
打球が内野手の頭上を越えて,外野手まで届かずにぽとりと落ちる安打。英語てテキサスリーガーといい,テキサス・リーグの選手がこの種の安打をよく打った。日本では〈ぽてんヒット〉などという。
ドラッグバント
バットを押し出すようにして,軽くボールに当て,一塁または三塁側にボールを転がし,一塁に生きる打法。日本式英語のセーフティバントと同じで,アメリカではベースヒットバントともいう。
ナックルボール
指先を立てるようにしてボールを握って投げる投手の投球。ボールの回転数が少なく,打者の近くで不規則に変化する。
ノーヒットノーラン
無安打無得点試合ともいう。投手が四球や失策などで走者を出したが,相手チームを無安打におさえ,得点も許さなかった試合。
バスター
走者がいるとき,バットをホームプレート上で水平に構えて犠牲バントをするように見せ,投手の投球と同時に内野手が前進してくると,すかさずヒッティングに出て内野手のすきをついて安打にしようとする打法。
パーフェクトゲーム
完全試合ともいう。投手が相手チームを1人の走者も出さずにおさえた勝ち試合。
パームボール
手のひら(パーム)で包むようにしてボールを深く握り,押し出すように投げる投手の投球。ボールはシンカーになる。
バント
バットをスイングせずに軽くボールに当て,打球がゆっくり内野を転がるように打つプレー。
ピックオフプレー
走者のすきをついて野手が塁に入り,投手または捕手から送球を受けて走者を刺すプレー。
ビーンボール
投手が打者の頭(俗語でビーン)をねらって故意に投げるボール。打者のユニフォームのほこりを落とす意味でダスター,ブラッシュボールともいう。公式規則では禁じられている。
フィルダーズチョイス
野選(野手選択)ともいう。フェアグラウンダーを捕った野手が,打者を一塁でアウトにする代りに,先行走者をアウトにしようとして他の塁へ送球するプレー。一般にはアウトにできなかった場合をいう。また先行走者をアウトにしようと野手が他の塁へ送球したすきをついて打者が余分の進塁をした場合,走者が盗塁を企てたのに守備側が無関心でなんら守備行為をしない間に進塁した場合,いずれも記録上は野選による進塁という。
フォークボール
食器のフォークのように人差指と中指の間にボールをはさんで投げる投手の投球。打者の手もとでボールが急に不規則に落ちる。
ボーク
走者が塁にいるとき投手が行ったイリーガルピッチ。全走者に1個の進塁が許される。
没収試合
フォーフィッテッドゲームともいう。規則違反によって主審が試合終了を宣告した試合で,9対0で違反をしたチームの負けになる。規則違反には,主審がプレーを宣告したのち5分経過しても一方のチームがグラウンドに出ないかゲームすることを拒否した場合,ゲームの続行を拒否した場合などがある。
ホットコーナー
三塁のこと。強烈な打球がよく飛んでくることにちなむ。
ボーンヘッド
間の抜けた,あるいは不注意なプレー。
ラインアウト
走者が塁間を走っているとき,野手のタッチを避けるため塁間を結ぶ直線から左右3フィート(91cm)以上外に出た場合のアウト。
リードオフマン
トップバッター(1番打者)のこと。
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