薬の作用により体の一部あるいは全身の知覚と運動機能を一時的に消失させ,手術のような体に侵害を加える際の痛みや精神的苦痛を取り除くことをいう。薬の作用が局所に限られるものを局所麻酔と呼び,全身的に作用するものを全身麻酔と呼ぶ。全身麻酔は通常意識消失を伴う。麻酔作用を有する薬を麻酔薬anestheticsと呼ぶが,通常,単に麻酔薬といえば全身麻酔薬をさし,局所麻酔薬とは区別されている。麻酔の目的は痛みを取り除くことのほかに,手術の侵害により起こる患者の反応を調節するとともに,手術が安全に行われるように管理することである。
麻酔の歴史
創傷や骨折などの外傷の治療や腫瘍の摘出など,手術を中心とした外科的療法は古くから行われていた。前18世紀のハンムラピ法典に,すでに外科的治療の記載がみられる。しかし,これら手術に際して痛みを和らげる方法は限られていた。古代ローマ時代の記録によれば,痛みを和らげるためにケシ,マンドラゴラ,ブドウ酒を服用させたり,局所の機械的圧迫や刺激などの方法がとられている。麻酔法が急速に発展したのは19世紀に入ってからであった。1799年デービーHumphry Davy(1778-1829)は笑気(一酸化二窒素N2O)吸入の麻酔作用を発見,ロングCrawford Williamson Long(1815-78)は1842年エーテル麻酔で頸部腫瘍摘出術を行った。歯科医W.T.G.モートンは46年10月16日マサチューセッツ総合病院臨床講堂でエーテル麻酔を供覧した。モートンが麻酔の父と呼ばれるゆえんである。日本では1804年10月13日華岡青洲が通仙散(麻沸湯)を用いて全身麻酔下で乳癌の手術に成功した。これらが全身麻酔下で行われた手術の初めである。日本にエーテルが導入されたのは55年(安政2),クロロホルムが初めて用いられたのは61年(文久1)といわれる。
一方,局所麻酔はコーラーKarl Koller(1857-1944)が1884年眼科手術にコカインを用いたのが初例である。現代の麻酔は第2次大戦を契機にさらに進歩した。無菌法や輸血・輸液療法の確立,抗生物質の発見とともに,麻酔法の発達が近代外科学の発展に果たした役割はきわめて大きい。日本では1952年東京大学に初めて麻酔科が設立され,山村秀夫が初代教授となった。今日では,麻酔科は病院において独立した診療科となっている。
全身麻酔
投与した全身麻酔薬が血流によって中枢神経に分布し,知覚の麻痺,意識の消失,自発運動機能と反射の抑制を起こす。これらの徴候は使用する麻酔薬の種類,濃度などにより程度の差が生じ,浅い麻酔では抑制と興奮が混在することがある。全身麻酔は麻酔薬の投与方法により吸入麻酔と静脈麻酔に分けることができる。
吸入麻酔inhalation anesthesia
笑気のようなガス麻酔薬,ハロタンなどのような揮発性麻酔薬を吸入させて全身麻酔を起こす方法である。麻酔薬は肺から摂取され血液に溶解し中枢神経にも分布する。麻酔の深さは麻酔薬の血中濃度に支配されるが,吸入麻酔薬は肺から排出される。吸気中麻酔薬濃度を調節すれば麻酔の深さを自由に調節することができる。
吸入麻酔には,生命維持に必要な酸素と麻酔薬の濃度を正確に規定,調節するために,酸素,笑気の流量計,揮発性麻酔薬の気化装置,麻酔ガスを吸入させる回路などを備えた麻酔器を用いる。麻酔ガス,気化した揮発性麻酔薬と酸素の混合ガスは吸気側の呼吸回路から,マスクや気管内チューブを介して患者の肺に送られる。呼気は呼気回路に流れ,回路中の炭酸ガス吸収装置(ソーダライム)を通過し,炭酸ガスが取り除かれ,新鮮なガスと混合して再び吸気ガスとして吸気側から肺に送られる。このように,吸気回路と呼気回路を備え,ガスが呼吸回路を循環するものを循環回路と呼ぶ。一般に用いられている麻酔器は循環回路を備えている。
静脈麻酔
麻酔薬を静脈内に注射することによって行う全身麻酔法。麻酔薬は血流を介して中枢神経に分布し麻酔状態となる。麻酔の深さは脳内の麻酔薬の濃度による。しばらくすると血流中の麻酔薬は臓器に移行し,血液中の濃度が低下し覚醒する。静脈麻酔は吸入麻酔の導入,補助,中枢神経抑制,鎮静などの目的で用いられる。呼吸,循環の抑制作用があるので,通常は単独では用いない。
全身麻酔薬
通常,次の3種に分類される。(1)吸入麻酔薬 吸気に混入して吸入させるガスまたは揮発性薬物。(2)静脈麻酔薬 静脈内注射により麻酔する薬物。吸入麻酔薬に比べ麻酔程度の調節が困難である。(3)直腸麻酔薬 直腸粘膜からの吸収による麻酔。トリブロムエタノールがこの用途に用いられる。
麻酔薬により麻酔が進行する過程は大きく4段階に分けられる。第Ⅰ期(誘導期)は意識はまだ明りょうであるが痛覚は鈍麻し,眠く,めまいを感ずる。第Ⅱ期(発揚期)は意識が混濁し,自制心が消失して見かけ上興奮しているように見える段階。第Ⅲ期(手術期)はさらに麻酔が進み,発揚が消失。反射機能が低下して骨格筋は弛緩し,手術に好適な時期。第Ⅳ期(延髄麻痺期)は麻酔が延髄に及んで呼吸中枢,血管運動中枢などが侵され,生命が危険になる状態。これら各段階の続く時間は薬物の特性と用量によって異なる。
全身麻酔薬の望ましい条件として次のような事項があげられている。(1)発揚期がなく,誘導期の副作用が少なく,手術期に早く入ること。(2)循環器,呼吸器系に影響がなく,肝臓や腎臓機能に毒性がないこと。(3)麻酔後,速やかに覚醒して不快感を残さないこと。(4)ガスおよび揮発性液体の場合は引火性や爆発性のないこと。これらの条件はエーテルやクロロホルムの欠点を示しており,ハロタンなど最近の薬物はこの条件を十分考慮して開発されている。
中枢神経抑制のメカニズム
麻酔薬によって中枢神経系の活動が抑制されるメカニズムはいまだ十分には解明されていないが,これに関する学説はいろいろ提出されている。これらは次の3種に大別できる。(1)物理化学的学説 神経を構成する成分の脂質と水との分配係数が大きく,脂質との親和性の高い薬物ほど麻酔力が強いとする説。また,麻酔薬が中枢神経系内で水和物の微小結晶をつくり神経活動を抑制するとする説など。麻酔薬の物理化学的特性により麻酔効果を説明しようとする学説。(2)生化学的学説 脳組織でのグルコース利用に伴う酸素消費が抑制され,これに関与する酵素が麻酔薬で抑制されるとする学説など。(3)生理学的学説 大脳皮質に覚醒的な信号を送っている脳幹部位を麻酔薬が抑制するという説など。いずれも定説にはなっていない。
吸入麻酔薬
1世紀以上にわたり使用されたクロロホルム,エーテル,あるいはほぼ50年前に発見されたエチレン,トリクロロエチレン,シクロプロパンなどは麻酔作用に比べて毒性が強かったり,引火性,爆発性などの性質があるため,ほとんど用いられなくなった。今日使用されているのは次の数種類の麻酔薬に限られている。
(1)笑気(一酸化二窒素) 1844年以来今日まで麻酔薬の主役として用いられている。不活性のガスであり,生体に及ぼす影響がほとんどない。麻酔の導入,覚醒が速い,無痛効果が強い,気道粘膜の刺激性がない,引火・爆発性がないなどの利点がある。笑気は吸入麻酔薬の代表であるが,笑気ガスだけでは手術が可能な麻酔の深さに達しないことから,通常は揮発性麻酔薬あるいは鎮痛薬をあわせて補助的に投与する。
(2)ハロタン 1958年イギリスで開発された揮発性麻酔薬。気化器を用いて0.5~2.5%の吸気濃度で麻酔を維持する。麻酔作用は強力で,気道粘膜刺激作用もなく,導入,覚醒は速い。現在,世界で最も広く用いられている揮発性麻酔薬である。ときに不整脈や術後に肝臓障害を起こす欠点がある。
→ハロタン
(3)メトキシフルレンmethoxyflurane ハロタンと前後してアメリカで開発された。揮発性麻酔薬のなかで麻酔作用は最も強力である。筋弛緩作用があり,心筋被刺激性がほとんどないなどの利点がある。麻酔導入,覚醒が遅く,代謝産物が腎臓障害を起こす欠点がある。
(4)エンフルレンenflurane 1960年代にアメリカで開発された。麻酔作用は強力で,導入,覚醒は速い。麻酔中にエピネフリンの併用が可能である。深い麻酔下の過換気で中枢神経を刺激する作用がある。
(5)イソフルレンisoflurane 1970年代にアメリカで開発された。ほかの揮発性麻酔薬の長所をすべてもっているが,麻酔後に肝臓障害が起こることがある。
静脈麻酔薬
(1)チオバルビツレートthiobarbiturate マロン酸とチオ尿素が結合した一群の化合物をいうが,静脈麻酔薬としては,1935年にアメリカで開発されたチオペンタールと,58年に開発されたサイアミラルthiamylalが世界的に普及している。チオペンタールの麻酔作用時間はきわめて短時間である。麻酔の導入は迅速で円滑であるため不快感はない。覚醒も速く爽快である。投与量と投与速度によって鎮静,催眠,麻酔の状態を呈するが,鎮痛作用はなく,呼吸,循環機能を抑制することが欠点である。
→チオペンタール
(2)ケタミンketamine 1958年アメリカで開発された。体表痛に対して強い鎮痛作用を有し,中枢神経には特異的に作用する静脈麻酔薬である。中枢神経の一部は抑制,一部は賦活されることから解離性麻酔薬と呼ばれている。
なお,神経遮断薬と鎮痛薬を静脈内注射すると,意識は保たれるが周囲に無関心な鎮静状態,無痛状態となり,手術が可能な状態となる。このような方法をニューロレプトアナルゲシアneuroleptanalgesia(NLAと略記)という。循環が安定するが呼吸抑制は著しい。
局所麻酔
局所麻酔薬を投与した部位の神経繊維に達し,刺激伝導を抑制遮断することによって,局所の知覚の麻痺を起こす方法。局所麻酔の種類には,(1)表面麻酔topical anesthesia,(2)粘膜表面に塗布する浸潤麻酔infiltration anesthesia,(3)狭義の局所麻酔(局所に浸潤注射する),(4)伝達麻酔conduction anesthesia(末梢神経の走行経路に局所麻酔薬を注射して神経伝達を遮断する。神経ブロックnerve blockとも呼ばれる),(5)脊椎麻酔spinal anesthesia(脊髄くも膜下腔に局所麻酔薬を注入して脊髄前根,後根を遮断する),(6)硬膜外麻酔epidural anesthesia(脊椎の硬膜外腔に局所麻酔薬を注入して脊髄前根,後根を遮断する)がある。
局所麻酔は,意識下で手術が可能であり,自発呼吸が維持されている,手術部位の確実な鎮痛が得られる,手術野の自発運動の抑制と手術侵害による自律神経反射の抑制などが利点となる。
局所麻酔は,全身麻酔が禁忌となるような重要臓器の疾患や機能障害があるとき,意識を維持したいとき,患者が承諾するときなどに行われる。
麻酔管理
手術療法の方針が決定したときから,麻酔科では,どのような麻酔法をとるかをはじめ,手術や麻酔の安全性,危険性を評価するために,詳細な術前検査と診察を行う。合併疾患があれば治療する場合もある。手術前日,麻酔科医が診察し,麻酔の前投薬を指示する。術中は,単に麻酔によって痛みを取り除くだけではない。呼吸,循環,代謝の安定を図り,患者の安全を守ることが麻酔管理の大きな目的である。術中管理においては血圧,心拍数,心電図,体温,呼吸の状態などを常時監視しながら,適切な麻酔の深さを維持するよう麻酔薬の投与を調節し,喪失した体液を補うために輸液を行う。筋弛緩薬を併用する場合には呼吸を人工的に維持しなければならない。手術後は回復室,病室で,麻酔による合併症を防ぎ,術後の痛み対策の管理を行う。
麻酔科医
1960年3月,麻酔科医は審査のうえ麻酔科を診療科名として標榜できることになった。麻酔科の仕事の特殊性から一定期間の訓練,経験を積んだことが審査され,厚生大臣から許可を受けるものである。62年,日本で最初に確立された専門医制度下で認定試験を行い誕生したのが,日本麻酔学会が認定する麻酔指導医である。麻酔科標榜の資格を有し,5年間麻酔に専従し,筆記試験,口頭・実技試験に合格した者がこの資格を有する。麻酔科医の業務範囲は広く,手術室での麻酔管理のほか,ペインクリニック,ICU,救急救命センターでの活躍が期待されているほか,中央手術部,輸血センターなどの病院における中央的サービス部門の管理運営を任されていることが多い。医学部での麻酔学の教育範囲も広く,麻酔薬の薬理学にとどまらず,呼吸生理,循環,神経学,蘇生学,体液管理などに及び,臨床実習でも,手術患者の管理,蘇生術,ペインクリニックにおける神経学的診断などが行われている。