『平家物語』の詞章を琵琶(びわ)の伴奏で弾き語りする語物(かたりもの)の一種。「平家琵琶」「平語(へいご)」ともいう。室町時代まで盲人演奏家によって伝承され、江戸時代以降は晴眼者で演奏する者も現れた。
[シルヴァン・ギニアール]
13世紀初めに雅楽・声明(しょうみょう)・盲僧(もうそう)琵琶の三者を源流として成立。『徒然草(つれづれぐさ)』第226段には、信濃(しなの)前司行長(ゆきなが)と生仏(しょうぶつ)という盲僧の協力で鎌倉時代の初めころつくられたとあるが、その成立をめぐっては多くの異説がある。約100年後の南北朝時代になると、検校(けんぎょう)明石覚一(あかしかくいち)(1300?―71)という名人が現れて詞章・曲節に改良を加え、現行のような形に整えたとされる。「当道」という盲人の位階制度ができたのも覚一のころで、最高位者を検校、のちには最高責任者を総検校と称した。これから室町時代が平曲の最盛期である。江戸時代に入っても幕府の保護を受けていたため、三味線の流行にも駆逐されることなく、とくに徳川家光(いえみつ)は平曲を愛好して、波多野孝一(こういち)検校(?―1651)に京都で波多野流を、前田九一(くいち)検校(?―1685)に江戸で前田流を開かせた。京都でこの両流を学んだ荻野知一(とものいち)検校(1731―1801)は、名古屋に出て『平家正節(まぶし)』(1776成立)という譜本をつくった。数多い晴眼の平曲愛好者のための譜本の集大成ともいうべき優れたもので、今日まで前田流の規範譜である。明治に入ると当道保護の政策が廃止され、京都の波多野流は藤村性禅(せいぜん)(1853―1911)の死によって事実上の断絶をみた。
一方、前田流は名古屋のほか平曲に熱心であった津軽藩にも伝わり、藩士館山漸之進(たてやまぜんのしん)は1910年(明治43)『平家音楽史』を著した。第二次世界大戦後は、名古屋の井野川幸次、土居崎正富、三品正保の三検校と、仙台の館山甲午(こうご)(漸之進の子)の4人が「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」に選択された。これらの芸筋は廃絶しかかったが、館山の弟子橋本敏江が東京で活躍しているほか、名古屋でもわずかに伝承されている。
[シルヴァン・ギニアール]
平曲は『平家物語』の各章を一曲(一句という)として数え、全200曲余、これを伝習制度上、〔1〕平物(ひらもの)(大部分)、〔2〕伝授物(習(ならい)物ともいい33曲)、〔3〕秘事(ひじ)(五曲)に分ける。荻野検校は平曲の習得を次のように定めている。平物50曲をマスターすることが初段で、そのあと伝授物のうち「読物(よみもの)」(13曲)を学ぶ。平物100曲以上を習得した者は、同じ伝授物のうちの「五句物」「炎上物」「揃(そろい)物」(いずれも五曲)などを覚えてから、「灌頂巻(かんじょうのまき)」(「女院(にょういん)御出家」以下の5章)の伝授を受ける。秘事は「小秘事」の二曲(祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)・延喜聖代(えんぎせいだい))と「大秘事」の三曲(宗論(しゅうろん)・剣(けん)の巻・鏡の巻)で、これは総検校にのみ伝授され、一生に三度しか演奏しないほどの秘曲として尊重された。
[シルヴァン・ギニアール]
平曲の1章(句)は、曲節とよばれる類型的な部分の組合せでつくられている。曲節には「口説(くどき)」「初重(しょじゅう)」「三重(さんじゅう)」「上歌(あげうた)」など約50種あるが、主要なものは11種ほどである。それぞれ音階・音程・リズムが異なり、合戦描写では「拾(ひろい)」の曲節というように詞章の内容などとも関連がある。その詞章や曲節は、平曲以後の能、浄瑠璃(じょうるり)、地歌箏曲(じうたそうきょく)などに多大な影響を与えた。
平曲に用いる平家琵琶は、雅楽の楽琵琶よりやや小さく、四弦五柱(じゅう)。柱と柱の間を押さえて演奏する。調弦は荻野検校によればA2―C3―E3―A3であったが、現在の平曲ではすこし異なる。撥(ばち)はツゲ製が多く、先の両端はとがっている。琵琶は曲節の前奏や間奏を奏し、詞章とともには弾かれず、琵琶の手は「口説」の前では「口説撥」のように続く曲節によって決定されている。
[シルヴァン・ギニアール]
琵琶を弾きながら,《平家物語》の文章を語る語り物音楽。〈平家琵琶〉〈平家〉〈平語(へいご)〉ともいわれたが,最近は〈平曲〉の名称が一般的である。
起源には諸説あるが,なかでも有力視されているのは《徒然草》の記述で,それによると,後鳥羽院の時代に天台宗座主慈鎮(じちん)(慈円)の扶持を受けていた雅楽の名人,信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)が《平家物語》を作り,生仏(しようぶつ)という東国出身の盲人に教えて語らせたのが初めという。天台宗では慈覚大師(円仁)以後,民衆教化のために〈和讃(わさん)〉や〈講式〉といった宗教的な語り物を積極的に作り出していた。一方で,平安時代から神社に属し,祭式などのおりに物語を語った盲目の琵琶法師の存在がすでに知られており,彼らが当時まだ人々の記憶に新しい平家一門の悲劇を,鎮魂の意をこめて頻繁に語りのテーマにとり上げていたであろうことは想像にかたくない。そこに行長と生仏という人材があらわれて,《平家物語》という一大唱導芸術がつくり出されたということは考えられる。
13世紀も後半になると,京都八坂の城玄(じようげん),筑紫出身の如一(じよいち)という名人が出,それぞれ八坂流(やさかりゆう),一方流(いちかたりゆう)を立てた。以後,八坂流はあまりふるわず,平曲は一方流を中心に伝承されていく。如一は《平家物語》の詞章の改訂に着手したが,その弟子で〈天下無雙(むそう)の上手〉といわれた明石覚一(あかしかくいち)(?-1371)はさらに改訂・増補を重ね,〈覚一本〉とよばれる一本を完成し,一方流平曲の大成者として以後の平曲隆盛の基盤をつくった。このころ,平曲を語る盲人たちは,〈当道(とうどう)〉という座を結成し,お互いの縄張りを確保するようになるが,覚一は文献上最初の検校(当道座の最高位)であり,当道の祖といわれる。覚一以後,平曲は最盛期を迎え,平曲家の増大にともなって一方流が妙観,師道,源照,戸嶋の4派,八坂流が妙聞,大山の2派に分かれた。このころには平曲家が武士や貴紳の屋敷へよばれて演奏した記録が数多く残っている。平曲を語りながら諸国を巡り歩く盲人たちは,同時に各地でのニュースも伝え歩き,戦国時代の武将たちの中には平曲家をスパイとして利用する者もあったという。応仁の乱(1467-77)のころから平曲は盛りをすぎるが,16世紀半ばに琉球から三味線がもたらされると,多くの平曲家が浄瑠璃に転向していき,平曲は急速に衰退する。
江戸時代に入ると,当道の組織は相当程度の自治権を認められたうえ,幕府の保護政策をうけることに成功した。生活の安定した盲人たちのあいだでは,ひところのような隆盛はみられなかったものの,平曲は地歌(じうた),箏曲をはじめすべての音曲の基礎として重視され,検校になるための条件として平曲の素養が欠かせなかったため,それまでの伝統がよく守られた。一方流の師道派から出た波多野検校と前田検校は,それぞれ波多野流,前田流を立て,以後の平曲はこの2流を中心に伝承されていく。波多野流はおもに京都に,前田流は江戸を中心に全国に広まった。また江戸時代には晴眼の俳人や茶人のあいだで平曲が静かなブームをよび,こうしたしろうとの愛好家のために声明(しようみよう)や謡(うたい)の記譜法を応用しながらさまざまな平曲譜本が作られた。18世紀後半,名古屋で活躍した前田流の荻野検校は大々的な整譜作業を行い,《平家正節(へいけまぶし)》という優れた譜本を完成し,これが江戸の前田流にとり入れられ,さらに広く全国に普及した。
明治時代になり,新政府が当道を廃止したため,収入の道の途絶えた平曲家たちは鍼灸(しんきゆう)の仕事などに転向することになる。前田流を伝えた津軽藩士の家の出である館山漸之進(ぜんのしん)(1845-1916)はこうした平曲の衰運を嘆き,明治末年,平曲の保存と平曲家の育成に奔走し,1910年《平家音楽史》を自費出版するなど,平曲保存に力を尽くした。一方,京都に伝えられた波多野流は,最後の検校といわれた藤村性禅(しようぜん)(1853-1911)の門下に専門家,しろうと合わせて何人かの弟子があったが,第2次世界大戦後,後継者は絶えた。
《平家物語》は〈小督〉〈宇治川〉など200余の章段からなるが,平曲ではその章段を〈句〉とよぶ。前田流の分類によると,句は〈平物(ひらもの)〉〈伝授物〉〈灌頂巻(かんぢようのまき)〉〈大秘事〉〈小秘事〉に分けられる。〈平物〉は普通に教授される曲であり,〈伝授物〉は平物を50句ないし100句おさめたあとに伝授され,《腰越》などの〈読物(よみもの)〉,《都遷》などの〈五句物〉,《清水炎上》などの〈炎上物〉,《源氏揃》などの〈揃物(そろいもの)〉の曲がある。伝授をうける前に精進が必要とされ,神聖視されているのが〈灌頂巻〉で,《大原御幸(おはらごこう)》《六道》など5曲,〈大秘事〉〈小秘事〉は容易には伝授を許されない曲で,〈大秘事〉に《宗論(しゆうろん)》《剣の巻》《鏡の巻》など,〈小秘事〉に《祇園精舎》《延喜聖代》などがある。
音楽的性格からみると,抒情的・旋律的な〈節物(ふしもの)〉(賦し物)と,勇壮でテンポの速い〈拾(ひろ)イ物〉に分類されるが,両方の性格を合わせもつものもある。また〈読物〉は独特のフシまわしをもつ部分を含む。平曲の一句は,曲節とよばれる類型的な部分の組合せで作曲されている。これは謡がサシとかクセといった部分の組合せで構成されているのと同じ作曲法で,もとは〈表白(ひようびやく)〉や〈講式〉に発している。
平曲の曲節は,これも前田流を例にとると,細かくみて約50種あるが,詞章内容や音楽的性格から次の7種に大別できる。(1)素声(しらこえ)類(素声・ハヅミ) 旋律をもたずに語る部分。(2)口説(くどき)類(口説・詞折(しおり)口説など) シラビック(1音節1音符)で,ことばのアクセントに合わせて4度音程を上下し,単純で語りに近い。使用数の最も多い基本的な曲節。(3)下(さげ)類(下・コワリ下・半下(はんさげ)など) 口説に続き,口説をしめくくり,次の曲節を準備する短い曲節。下はフシ類へと続き,コワリ下は拾イ類の曲節に続く。(4)拾イ類(拾イ・上音(じようおん)・下音(げおん)・呂(りよ)など) シラビックだが変化に富み,テンポも速い。合戦描写,武士の装束描写などの詞章につけられる。拾イ類の曲節を多く含む句が〈拾イ物〉とよばれる。(5)フシ類(三重(さんじゆう)・中音(ちゆうおん)・初重(しよじゆう)など) ユリをたっぷりきかせ,最も旋律的な曲節。美文調の部分に多く用いられる。中音・初重は一句のしめくくりにもよく使われる。〈節物〉の中心的曲節。(6)折り声類(折り声・峯声(みねごえ)など) 1音ごとに特殊な装飾音をつけて語ることからこの名がある。悲哀,悲壮な場面,中国の故事を引く部分などに用いられる。(7)歌類(上歌(あげうた)・下歌(さげうた)・曲歌(くせうた)) 和歌につけられる旋律的な曲節。
平家琵琶は形態上からは楽琵琶(雅楽の琵琶)の小型のものといえる。ただし楽琵琶が4弦4柱なのに対し,平家琵琶は4弦5柱で,撥の形,弦のおさえ方,調弦法,奏法はまったく楽琵琶と異なっている。琵琶は曲節の前奏や間奏を奏し,また息つぎの際に弾かれることもある。琵琶の手は続く曲節によって決まっている。たとえば口説の前では〈口説撥〉,拾イの前では〈拾イ撥〉という手が奏され,どの場合も前奏を聞けばすぐ次の歌い出しの音がわかるようになっている。琵琶の手は総じて単純だが,続く曲節の性格にふさわしい音楽をつけるくふうがなされている。
平曲は全体的に衰退はしたが,その詞章や曲節は,平曲以後の能,狂言,浄瑠璃,地歌,箏曲など多くの伝統音楽に影響を与えた。館山漸之進の末子館山甲午(こうご)(1894-1989)が仙台にあって平曲の伝承・普及に力を尽くした。また荻野検校以来の伝統をもつ名古屋でも,箏曲家の井野川幸次(1904-85),三品正保(1920-87),土居崎正富(1920-2000)の3人が10曲ほどの前田流平曲を伝え,後継者育成のほかに,盲人音楽家にゆかりの深い弁天祭(5月第1土・日曜)や荻野検校の命日(6月22日)などに,平曲を奉納する伝統を守っていた。以上の4人は記録作成等の措置を講ずべき,無形文化財に指定されていた。
→平家物語
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