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  11. 本居宣長

本居宣長

ジャパンナレッジで閲覧できる『本居宣長』の日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

本居宣長
もとおりのりなが
[1730―1801]

江戸時代中期の国学者、神道 (しんとう)学者。鈴迺屋 (すずのや)と号する。享保 (きょうほう)15年5月7日に生まれる。伊勢 (いせ)国松坂の木綿問屋小津定利 (おづさだとし)(1695―1740)の二男。母はお勝(1705―1768)、幼名は富之助。父の死後、1748年(寛延1)19歳で同国山田の紙商今井田家の養子となったが、21歳で不縁となって実家に出戻り、翌1751年(宝暦1)兄の死によって小津家の家督を相続した。若くから和歌を習い四書五経を読み、商売には不向きであったうえ家運も傾いたので、翌23歳の暮れ、医師となるため京都に遊学した。そのころ姓を本居に改めている。

 宣長はまず朱子学者堀景山塾に入って儒書を読み、堀元厚 (ほりげんこう)(1686―1754)について李朱 (りしゅ)医学の基本図書を学び、元厚の死後李朱医学の大家武川幸順 (たけかわこうじゅん)(1725―1780)のもとで臨床医術を修めて、1755年26歳で医師の免許を得、名を宣長、医師名を春庵と号して診療にも従った。

 宣長は当時京都に興隆してきた医学の新風古医方 (こいほう)にひかれ、古医方の大家香川修庵 (かがわしゅうあん)(1683―1755。後藤艮山 (ごとうこんざん)、伊藤仁斎 (いとうじんさい)の門人)に私淑して、1756年には李朱医学を非難して古医方に従った医学論を友人への書簡のなかで述べている。古医方というのは、陰陽五行説によって病因と治療の方を考える形而上 (けいじじょう)学的な李朱医学に反対して、親試実験によって病症と薬剤、鍼灸 (しんきゅう)の間に経験的法則をみいだそうとする実証的な医学であった。しかも宣長はそのころ荘子に傾倒して、〔1〕今後は「私有自楽」の境地に「人情の解放」を求めて和歌文学に耽 (ふけ)る旨を宣言し、同時に〔2〕人事自然の現象に「然 (し)かあらしめる原因」を探し求める因果論的思考を排して「自然の神道」を唱えている。

 1757年28歳のとき京都遊学から故郷松坂に帰って古医方をとる町医者となったが、その前後に国文研究の最初の論稿『排蘆小船 (あしわけおぶね)』を著し、1758年には「安波礼 (あはれ)弁」をつくり、『源氏物語』の講義を始め、1763年には『紫文 (しぶん)要領』『石上私淑言 (いそのかみのささめごと)』(宣長の国文研究の主著)を著した。これらの書物のなかで宣長は、すべての物・事は「神のみしわざ」である、その「物・事の心」と「その心を知っておこす感動」が「もののあはれ」を生み出す、「もののあはれ」を知ることが文学の創作と鑑賞の根拠であると説いている。

 宣長は、1763年に松坂に立ち寄った賀茂真淵 (かもまぶち)に対面してその門に入り、国文学の研究から神話・神道の研究に移っていった。早くも翌1764年には『古事記』の講義を始めて、1778年(安永7)には神代巻上巻の注釈を終わり、その間1771年(明和8)に神道論『直毘霊 (なおびのみたま)』の初稿(『直霊 (なおび)』)を著した。

 宣長は『古事記』神代巻の伝の述作にあたっても、神代では神は人であり、神と神わざは人々が見聞触知しえた経験的事実であると考え、『古事記』の神話を実証的に研究した。また宣長は『古事記』研究と同じ方法で1782年(天明2)には『真暦考』『天文図説』を著し、1777~1779年に書かれた『鈴屋 (すずのや)答問録』のなかで「神道医学」の草分けともなる医学論を語っている。宣長は、神々の行為も自然の現象も、罹病 (りびょう)・治癒も、すべての現象の「然 (しか)る所以 (ゆえん)」は神慮にある、しかし神慮を問うことは不遜 (ふそん)である、すべては「神のみしわざ」で人智 (じんち)の及ばぬ「あやしき」ものである、と説いた(荻生徂徠 (おぎゅうそらい)の影響)。しかしすべての理を否定するわけではない、理には見聞触知しうる「事にあらわなる(howの理)」と「事にあらわならぬ(whyの理)」があり、陰陽五行の理などは後者で「こちたき漢心 (からごころ)」の所産である、と厳しく排撃した(真淵の影響)。宣長はこうした経験的実証主義と神信仰を結合した神秘的不可知論をとって市川匡麻呂 (いちかわたずまろ)(鶴鳴)、藤貞幹 (とうていかん)(1732―1797。藤井貞幹 (ふじいさだもと))、上田秋成 (うえだあきなり)と論争して『葛花 (くずばな)』(1780成立)『鉗狂人 (けんきょうじん)』(1785成立)『呵刈葭 (かかいか)』(1790ころ成立)を著し、論争の間に『玉鉾 (たまほこ)百首』『玉くしげ』(ともに1787)を書いている。そのころ彼は医業に精励し、1783年(天明3)には自ら広告文を書いて薬を製造販売し、医業からの年収も生涯中もっとも多額となっている。宣長にとって、医業は単に生計を支える手段ではなく、彼の学問を特色づける経験的実証主義の思想的エネルギー源であった。

 1787年(58歳)、宣長は松坂を飛地 (とびち)とする本藩(紀州藩)に針医格で召し出され、藩主徳川治貞 (とくがわはるさだ)(1728―1789)に『秘本玉くしげ』を上呈して、神話・神道の研究では一君万民の皇国主義を説きながら、現実の政治体制は神のみしわざである、被治者はひたすら神のみしわざ、現実には治者の法度 (はっと)に随順すべしと説いた。水戸藩の儒者会沢正志斎 (あいざわせいしさい)は臣道あって君道なしと批判している。

 こうした国文、神話、神道の研究の間に宣長は『詞 (ことば)の玉緒 (たまのお)』など国語学の研究成果を次々に発表している。国語学方面は実子春庭 (はるにわ)、歌文学は養子大平 (おおひら)、神道論は没後の門人平田篤胤 (ひらたあつたね)に受け継がれ、後世に大きな影響を与えた。

 宣長は1793年(寛政5)64歳で随筆『玉勝間 (たまかつま)』を起稿、1796年に『源氏物語玉の小櫛 (おぐし)』、1798年には『古事記伝』44巻の執筆を終わって、翌1799年70歳で『古訓古事記』をつくり、初学者のために『初山踏 (ういやまぶみ)』を書いた。また自分の過去を回想して『家のむかし物語』(1798成立)を著している。ついで1800年『遺言書』をしたため、翌享和 (きょうわ)元年9月29日に72歳で病没した。遺骨は松阪市内の檀那 (だんな)寺の樹敬寺墓地と、郊外の山室山に埋葬された。

[石田一良]2018年10月19日

世界大百科事典
本居宣長
もとおりのりなが
1730-1801(享保15-享和1)

江戸中期の国学者。伊勢国松坂に生まれる。旧姓は小津氏,のち先祖の姓に復し本居を称する。幼名を富之助というが,何度か改名している。生家は松坂木綿を手広くあきない,江戸にも出店をもつほどだったが,父の死をきっかけに家運がかたむき間もなく業を廃した。宣長も商人になるのをやめ,医師として身をたてるため22歳のとき京に上り,堀景山の門に入り儒を学び,堀元厚,武川幸順に就いて医を修業した。6ヵ年にわたるこの京都遊学時代に,宣長学の土台はつくられたらしい。まず,景山のもとで契沖の著作に接し,生涯わすれえない学問上の開眼を経験する。朱子学に反対し古文辞学をとなえた荻生徂徠や太宰春台らの著作から多くのことを学びとったのも,景山を介してである。朱子学派ながら景山は徂徠とも交わりがあり,また国典にも関心をよせていた。医を修めるのに儒を学ぶのは当時の習いで,宣長が景山に就いたのもそのせいだが,はからずもここで彼は学問の大道につれ出されたのである。この期の作《排蘆小船(あしわけおぶね)》はすでに,〈歌ノ本体,政治ヲタスクルタメニモアラズ,身ヲオサムル為ニモアラズ,タダ心ニ思フ事ヲイフヨリ外ナシ〉というりんりんたる一文で始まっている。蘆をわけてゆく舟という題名のとおり,それは一つの新たな破砕と前進を志向する。そして続く《紫文要領》(1763成立)では,かの〈もののあはれ〉の説がいち早く主題化され,物語の本旨は儒仏の教えなどと違い,ものに感じて動く人の心すなわち〈もののあはれ〉を知るにあることが,《源氏物語》にそくしつぶさに論じられる。それはしかし,文芸の価値の自律をたんに説こうとしたものではない。みずからも記しているが,心ひそめて《源氏物語》をくり返し読み味わうという経験にもとづいてその論はなされており,実証性の自覚がそこには存するといっていい。《排蘆小船》は《石上私淑言(いそのかみのささめごと)》(1763成立)の,《紫文要領》は《源氏物語玉の小櫛(たまのおぐし)》(1796成立)の草稿にあたるが,京都遊学を終えた宣長はすでに紛れもなく一家をなす独歩の学者であった。

33歳のとき,旅の途次松坂に泊まった賀茂真淵と初めてあい,やがて入門する。翌年《古事記伝》(1798完成)の稿を起こしているのは,真淵の志を継ごうとしたからであろう。真淵も宣長に己の学統を伝うべき弟子を見いだした。国学が一つの流派としてここに形成され,以後,古道論がようやく主軸になってゆく。流派といっても私的なものではなかったことが,《玉勝間(たまかつま)》の〈師の説になづまざる事〉という一文などによってもわかる。現に真淵の説の誤りに対する宣長の批判は手きびしい。宣長は己の学問を〈古学〉と呼び,〈すべて後世の説にかかはらず,何事も,古書によりて,その本を考へ,上代の事を,つまびらかに明らむる学問也〉(《初山踏(ういやまぶみ)》)と定義する。それは神々の代への強い信に支えられていた。彼によれば《古事記》に伝える神代の不可思議な物語はそのまま信ずべきであり,浅はかな人知で疑ったり,もっともらしい理屈をいったりするのはすべて漢意(からごころ)のさかしらにすぎない。儒教の説く〈理〉に,彼は〈事〉すなわち目に見,手にふれることのできる事実の世界を対置し,それをありのままに受納せよという。〈もののあはれ〉の論も,人の心は〈理〉や規範に必ずしも従うものでないと主張する点で,もとづくところは一つである。《直毘霊(なおびのみたま)》《馭戎慨言(ぎよじゆうがいげん)》《葛花》などに徴しても,ここには反理性的な神秘主義や独りよがりの尊王主義ときわどく接するものがある。そうかといってしかし,神道者流と同日に談じうるかというにそうでない。宣長にあって〈言(こと)〉はあくまで〈事(こと)〉であり,古典の言葉から離れ,観念とたわむれることを彼はしなかった。とりわけ《古事記伝》は三十数年間の心血を注いで成った,〈言〉の徹底的な注釈という点で他に類のないもので,古学のかぎりが尽くされている。日本語の研究史上,宣長の業績がいちじるしいのも偶然でない。《詞玉緒(ことばのたまのお)》はテニヲハをくまなく調べ,係り結びに法則があるのを発見した画期的な著作だし,《漢字三音考》その他に見られる音韻研究なども学史に大きい足跡を残している。

彼の書斎は鈴屋(すずのや)と呼ばれる。中二階につくられた茶室風の質素な四畳半の部屋で,あるじが掛け鈴を鳴らして古をしのぶよすがにしたのでこの名がある。床には〈県居大人(あがたいのうし)(真淵)の霊位〉と自書した軸をかけ,この部屋に上る階段が取り外しのきく仕組みになっていたことからすると,かなり自覚的にしきられた独自な空間であったといえよう。墓は松坂の山室山にある。おもな門人には実子の本居春庭,養子の本居大平(おおひら)をはじめ田中道麿,服部中庸,横井千秋,石塚竜麿,鈴木朖(あきら),田中大秀らがいる。伴信友と平田篤胤とはいわゆる没後の門人である。
[西郷 信綱]

[索引語]
堀景山 紫文要領 もののあはれ 賀茂真淵 古学(日本) 言 事(こと) 鈴屋
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27. あがたいは【県居派】
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39. 排蘆小船(近世随想集) 269ページ
日本古典文学全集
見はべると云と同じ。…みな人に対してさきを敬ふ詞也」。ただし、ここの用例は唐突。口述で伝え教えること。『本居宣長随筆』二、景山先生不尽言曰「契沖師の説に、…古よ ...
40. 排蘆小船(近世随想集) 274ページ
日本古典文学全集
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日本古典文学全集
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42. 排蘆小船(近世随想集) 299ページ
日本古典文学全集
観れば、少陵(杜甫)の詩博く世故に渉れども、夫婦に出る者常に少くして、風人の義或は缺く」。『本居宣長随筆』二、景山先生不尽言曰「さて人情の事を論ぜば、即ち礼記に ...
43. 排蘆小船(近世随想集) 301ページ
日本古典文学全集
しるよりいで、物の心をしるは、世の有さまをしり、人の情に通ずるよりいづる也」。世間。世の中。『本居宣長随筆』二、景山先生不尽言曰「夫婦は人倫之始也ともの玉ひて、 ...
44. 排蘆小船(近世随想集) 302ページ
日本古典文学全集
自然と詞の美しきに随うて、意も深く 〔三五〕 〔三六〕 堀景山の所説で、宣長は多少批判的であった。『本居宣長随筆』二、景山先生不尽言曰「和歌は我朝の大道也。す ...
45. 排蘆小船(近世随想集) 314ページ
日本古典文学全集
詩にはいつはらぬ心のまことをいひづればこそ、いみじき物にして孔子も六経の一つには備へ給へれ」。『本居宣長随筆』二、景山先生不尽言曰「詩と云ものは恥かしきものにて ...
46. 排蘆小船(近世随想集) 318ページ
日本古典文学全集
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47. 排蘆小船(近世随想集) 339ページ
日本古典文学全集
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48. 排蘆小船(近世随想集) 356ページ
日本古典文学全集
神代口訣に日無の義也といへり」。いったん衰えたことが、再び盛んになること。決して。さらさら。『本居宣長随筆』二、景山先生不尽言曰「その上公家ならでは歌はよまれぬ ...
49. 排蘆小船(近世随想集) 358ページ
日本古典文学全集
後半は「伝授」。事実でないことを、本当のように作り立てること。判断力がある。見分ける力がある。『本居宣長随筆』二、景山先生不尽言曰「古今伝授の事、世上に流布せる ...
50. 排蘆小船(近世随想集) 366ページ
日本古典文学全集
同五日掾大伴宿祢池主の守家持に答ふる詩一首、題詞「山柿の歌泉は此に比ぶれば蔑きが如し」など。『本居宣長随筆』三「此方の上代に、道と云詞はただ道路の意ばかりにして ...
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古事記(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本古典文学全集)
「ふることぶみ」とよむ説もあるが、今日一般には「こじき」が慣用されている。建国の由来と第一代神武天皇から第三十三代推古天皇までのことを記した現存最古の典籍。その素材は神話・伝説・歌謡・系譜などである。三巻。上巻のはじめに漢文の序
本居宣長(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
江戸時代中期の国学者、神道学者。鈴迺屋と号する。享保15年5月7日に生まれる。伊勢国松坂の木綿問屋小津定利(1695―1740)の二男。母はお勝(1705―1768)、幼名は富之助。父の死後、1748年(寛延1)19歳で同国山田の紙商今井田家の養子となったが、21歳で不縁となって実家に出戻り、翌1751年(宝暦1)
天照大神(世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
記紀神話に登場する太陽神的性格の女神。天照大御神,大日孁貴,天照大日孁尊などとも呼ばれる。皇室祖神として伊勢神宮にまつられている。記紀では,その誕生譚,素戔嗚尊との誓約生み,天の岩屋戸,国譲り神話などの諸神話に登場する。〈皇祖神〉アマテラス《古事記》によれば
太安麻呂(改訂新版・世界大百科事典)
奈良初期の官人。《古事記》の編纂者。姓は朝臣。安万侶とも記す。壬申の乱に天武天皇側で活躍した武将多品治の子という伝えもある。《続日本紀》によれば,704年(慶雲1)従五位下,711年(和銅4)正五位上,715年(霊亀1)従四位下に叙せられ,翌年氏長となった。没したときには民部卿であった。
国譲り神話(改訂新版・世界大百科事典)
大国主神が葦原中国を天照大神に献上した次第を語る神話。諸々の異伝があるが,《古事記》によると,葦原中津国平定のために高天原からは,はじめに天菩比神(天穂日命)が遣わされるが,オオクニヌシと親しみ3年たっても復命しない。次に天若日子(天稚彦)が遣わされるが,オオクニヌシの娘下照比売と結婚して


「本居宣長」は古事記に関連のある記事です。
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古事記伝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
『古事記』の注釈書。著者、本居宣長。四十四巻、附巻一。出版開始、寛政二年(一七九〇)、完了、文政五年(一八二二)。本居宣長は賀茂真淵に面会(宝暦十三年(一七六三))したのち、『古事記』を解読、注釈することの意志をかため、真淵に入門し、『万葉集』の訓読
国譲り神話(改訂新版・世界大百科事典)
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太安麻呂(改訂新版・世界大百科事典)
奈良初期の官人。《古事記》の編纂者。姓は朝臣。安万侶とも記す。壬申の乱に天武天皇側で活躍した武将多品治の子という伝えもある。《続日本紀》によれば,704年(慶雲1)従五位下,711年(和銅4)正五位上,715年(霊亀1)従四位下に叙せられ,翌年氏長となった。没したときには民部卿であった。
天照大神(世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
記紀神話に登場する太陽神的性格の女神。天照大御神,大日孁貴,天照大日孁尊などとも呼ばれる。皇室祖神として伊勢神宮にまつられている。記紀では,その誕生譚,素戔嗚尊との誓約生み,天の岩屋戸,国譲り神話などの諸神話に登場する。〈皇祖神〉アマテラス《古事記》によれば
本居宣長(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
江戸時代中期の国学者、神道学者。鈴迺屋と号する。享保15年5月7日に生まれる。伊勢国松坂の木綿問屋小津定利(1695―1740)の二男。母はお勝(1705―1768)、幼名は富之助。父の死後、1748年(寛延1)19歳で同国山田の紙商今井田家の養子となったが、21歳で不縁となって実家に出戻り、翌1751年(宝暦1)


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