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  11. 本居宣長

本居宣長

ジャパンナレッジで閲覧できる『本居宣長』の世界大百科事典のサンプルページ

世界大百科事典
本居宣長
もとおりのりなが
1730-1801(享保15-享和1)

江戸中期の国学者。伊勢国松坂に生まれる。旧姓は小津氏,のち先祖の姓に復し本居を称する。幼名を富之助というが,何度か改名している。生家は松坂木綿を手広くあきない,江戸にも出店をもつほどだったが,父の死をきっかけに家運がかたむき間もなく業を廃した。宣長も商人になるのをやめ,医師として身をたてるため22歳のとき京に上り,堀景山の門に入り儒を学び,堀元厚,武川幸順に就いて医を修業した。6ヵ年にわたるこの京都遊学時代に,宣長学の土台はつくられたらしい。まず,景山のもとで契沖の著作に接し,生涯わすれえない学問上の開眼を経験する。朱子学に反対し古文辞学をとなえた荻生徂徠や太宰春台らの著作から多くのことを学びとったのも,景山を介してである。朱子学派ながら景山は徂徠とも交わりがあり,また国典にも関心をよせていた。医を修めるのに儒を学ぶのは当時の習いで,宣長が景山に就いたのもそのせいだが,はからずもここで彼は学問の大道につれ出されたのである。この期の作《排蘆小船(あしわけおぶね)》はすでに,〈歌ノ本体,政治ヲタスクルタメニモアラズ,身ヲオサムル為ニモアラズ,タダ心ニ思フ事ヲイフヨリ外ナシ〉というりんりんたる一文で始まっている。蘆をわけてゆく舟という題名のとおり,それは一つの新たな破砕と前進を志向する。そして続く《紫文要領》(1763成立)では,かの〈もののあはれ〉の説がいち早く主題化され,物語の本旨は儒仏の教えなどと違い,ものに感じて動く人の心すなわち〈もののあはれ〉を知るにあることが,《源氏物語》にそくしつぶさに論じられる。それはしかし,文芸の価値の自律をたんに説こうとしたものではない。みずからも記しているが,心ひそめて《源氏物語》をくり返し読み味わうという経験にもとづいてその論はなされており,実証性の自覚がそこには存するといっていい。《排蘆小船》は《石上私淑言(いそのかみのささめごと)》(1763成立)の,《紫文要領》は《源氏物語玉の小櫛(たまのおぐし)》(1796成立)の草稿にあたるが,京都遊学を終えた宣長はすでに紛れもなく一家をなす独歩の学者であった。

33歳のとき,旅の途次松坂に泊まった賀茂真淵と初めてあい,やがて入門する。翌年《古事記伝》(1798完成)の稿を起こしているのは,真淵の志を継ごうとしたからであろう。真淵も宣長に己の学統を伝うべき弟子を見いだした。国学が一つの流派としてここに形成され,以後,古道論がようやく主軸になってゆく。流派といっても私的なものではなかったことが,《玉勝間(たまかつま)》の〈師の説になづまざる事〉という一文などによってもわかる。現に真淵の説の誤りに対する宣長の批判は手きびしい。宣長は己の学問を〈古学〉と呼び,〈すべて後世の説にかかはらず,何事も,古書によりて,その本を考へ,上代の事を,つまびらかに明らむる学問也〉(《初山踏(ういやまぶみ)》)と定義する。それは神々の代への強い信に支えられていた。彼によれば《古事記》に伝える神代の不可思議な物語はそのまま信ずべきであり,浅はかな人知で疑ったり,もっともらしい理屈をいったりするのはすべて漢意(からごころ)のさかしらにすぎない。儒教の説く〈理〉に,彼は〈事〉すなわち目に見,手にふれることのできる事実の世界を対置し,それをありのままに受納せよという。〈もののあはれ〉の論も,人の心は〈理〉や規範に必ずしも従うものでないと主張する点で,もとづくところは一つである。《直毘霊(なおびのみたま)》《馭戎慨言(ぎよじゆうがいげん)》《葛花》などに徴しても,ここには反理性的な神秘主義や独りよがりの尊王主義ときわどく接するものがある。そうかといってしかし,神道者流と同日に談じうるかというにそうでない。宣長にあって〈言(こと)〉はあくまで〈事(こと)〉であり,古典の言葉から離れ,観念とたわむれることを彼はしなかった。とりわけ《古事記伝》は三十数年間の心血を注いで成った,〈言〉の徹底的な注釈という点で他に類のないもので,古学のかぎりが尽くされている。日本語の研究史上,宣長の業績がいちじるしいのも偶然でない。《詞玉緒(ことばのたまのお)》はテニヲハをくまなく調べ,係り結びに法則があるのを発見した画期的な著作だし,《漢字三音考》その他に見られる音韻研究なども学史に大きい足跡を残している。

彼の書斎は鈴屋(すずのや)と呼ばれる。中二階につくられた茶室風の質素な四畳半の部屋で,あるじが掛け鈴を鳴らして古をしのぶよすがにしたのでこの名がある。床には〈県居大人(あがたいのうし)(真淵)の霊位〉と自書した軸をかけ,この部屋に上る階段が取り外しのきく仕組みになっていたことからすると,かなり自覚的にしきられた独自な空間であったといえよう。墓は松坂の山室山にある。おもな門人には実子の本居春庭,養子の本居大平(おおひら)をはじめ田中道麿,服部中庸,横井千秋,石塚竜麿,鈴木朖(あきら),田中大秀らがいる。伴信友と平田篤胤とはいわゆる没後の門人である。
[西郷 信綱]

[索引語]
堀景山 紫文要領 もののあはれ 賀茂真淵 古学(日本) 言 事(こと) 鈴屋
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本居宣長の関連キーワードで検索すると・・・
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3. 本居宣長
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4. もとおり‐のりなが【本居宣長】
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5. もとおり‐のりなが【本居宣長】
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江戸中期の国学者、語学者。伊勢国(三重県)松坂の人。通称、彌四郎。号は鈴屋(すずのや)。京に出て、堀景山に漢学を学び、堀元厚について医学を修業したが、契沖の書に ...
6. もとおりのりなが【本居宣長】
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7. もとおりのりなが【本居宣長】
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8. もとおり-のりなが【本居宣長】
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9. 本居宣長[文献目録]
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10. もとをりのりなが【本居宣長】
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[人名]江戸後期の国学者。一七三〇年(享保十五)~一八〇一年(享和元)。伊勢松坂(=三重県松阪市)の人。初め、京都に出て、儒学・医学を学んだが、契沖の書物を読ん ...
11. Motoori Norinaga 【本居宣長】
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12. 本居宣長おを所屬之辨 (見出し語:本居宣長)
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13. 本居宣長和學 (見出し語:本居宣長)
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14. 本居宣長神道説 (見出し語:本居宣長)
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15. 近世随想集
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3年ごろ)、和学者・戸田茂睡(もすい)の江戸名所巡り『紫の一本(ひともと)』(1682年)、本居宣長の和歌論の処女作『排蘆小船(あしわけおぶね)』(1757年ご ...
16. もとおりのりながきゅうたく【本居宣長旧宅】三重県:松阪市/松坂城下/殿町
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17. 本居宣長旧宅(鈴屋)[百科マルチメディア]
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18. 本居宣長蔵書印[図版]
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19. 本居宣長の母[文献目録]
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20. あいなめのまつり【相嘗祭】
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ある)の意であろうとする説(『倭訓栞』)もあるが、一般には天皇と相伴に新饗し奉る故の名とする本居宣長の説(『玉勝間』)がよしとされている。しかしそれも後世的説明 ...
21. あお‐うま[あを:]【青馬・白馬】
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(2)一〇世紀中頃より漢字文献において「青馬」から「白馬」へと文字表記が統一される理由については、本居宣長、伴信友は馬自体が白馬に換えられたからであるというが、 ...
22. あおやぎ-たねのぶ【青柳種信】
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23. あおやまとうげ【青山峠】三重県:名賀郡/青山町/伊勢地村
日本歴史地名大系
伊勢側には伊勢茶屋があり、伊賀茶屋の向い側に青山大師とよばれる霊場がある。明和九年(一七七二)吉野旅行をした本居宣長は「菅笠日記」に「かいとをはなれて、阿保の山 ...
24. あからめ さす
日本国語大辞典
(「さす」は、語源、語義未詳。本居宣長は「為(す)」というのに同じで、「目をさす」は「物を見やること也」という。また、「映(さ)す」と当てる説もある)にわかに、 ...
25. 県居派
日本大百科全書
万葉調の作歌が県居派の特色である。和歌では後世、古今主義の桂園(けいえん)派と相対して、二大潮流をなした。本居宣長(もとおりのりなが)、揖取魚彦(かとりなひこ) ...
26. あがたい‐は[あがたゐ:]【県居派】
日本国語大辞典
〔名〕(県居は賀茂真淵の号)賀茂真淵門下の歌人や国学者。田安宗武、楫取魚彦(かとりなひこ)、加藤千蔭、村田春海、本居宣長、加藤宇万伎(うまき)、荒木田久老(ひさ ...
27. あがたいは【県居派】
国史大辞典
ここにとどまり、この歌風が江戸を中心に大いにふるった。これを江戸派と呼ぶが、真淵とは別の歌風を興した本居宣長の鈴屋派とともに、真淵晩年の「ますらをぶり」を基調と ...
28. 秋田(市)
日本大百科全書
。同じく国史跡として平田篤胤(あつたね)墓がある。平田篤胤は江戸時代末期を代表する国学者で、本居宣長(もとおりのりなが)の古道説を継承し、復古神道の鼓吹に尽力し ...
29. あきつしま【秋津洲】奈良県:御所市
日本歴史地名大系
という地名説話を載せる。同書雄略天皇四年八月二〇日条にも、蜻蛉に付会した説話がみえる。これについて、本居宣長の「国号考」は次のように述べている。秋津嶋は、古事記 ...
30. あ‐ぎょう[:ギャウ]【あ行】
日本国語大辞典
通じて五十音図は一般にあ行を「あ・い・う・え・を」のように書いたが、江戸時代に入り、富士谷成章、本居宣長らによって「お」「を」の位置が正された。ア ...
31. あこうむら【赤桶村】三重県:飯南郡/飯高町
日本歴史地名大系
寛永一八年(一六四一)検地帳(徳川林政史蔵)に「赤桶村」と記されている。寛政六年(一七九四)和歌山に向かう本居宣長は「紀見のめぐみ」で「閼伽桶といふ里の名を聞て ...
32. あざ‐な【字】
日本国語大辞典
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33. 『排蘆小船』
日本史年表
1757年〈宝暦7 丁丑〉 この頃 本居宣長 『排蘆小船』 成るか。  ...
34. 排蘆小船
世界大百科事典
本居宣長の歌論書。成立年は不詳だが,宣長の京都遊学時代(22~26歳)に成ったかとされる。歌論の処女作である。問答体で和歌に関する諸問題を論じているが,歌の本質 ...
35. あしわけおぶね【排蘆小船】
国史大辞典
注目すべきものである。『日本歌学大系』七、『本居宣長全集』二に所収。→本居宣長(もとおりのりなが) [参考文献]大久保正『排蘆小船』解題(『本居宣長全集』二)、 ...
36. 排蘆小船(近世随想集) 255ページ
日本古典文学全集
浄瑠璃などにも見える。宣長は、「ことわりや」の歌同様、謡曲、浄瑠璃などを通して知っていたと思われるが、のち『本居宣長随筆』五に『古今著聞集』より抄出する。平安前 ...
37. 排蘆小船(近世随想集) 264ページ
日本古典文学全集
切紙、抄物などによって、師から弟子へ授受する。宣長は「伝受」と「伝授」の両様の表記を用いる。『本居宣長随筆』二、景山先生不尽言曰「伝授の名目は東の野州に始まり、 ...
38. 排蘆小船(近世随想集) 268ページ
日本古典文学全集
伝授されて以来、御所伝授となる。『本居宣長随筆』二、景山先生不尽言曰「是より代々天子の事となり、古今伝授、近代に至ては事々しき重典のやうになれり」。本居宣長記念 ...
39. 排蘆小船(近世随想集) 269ページ
日本古典文学全集
見はべると云と同じ。…みな人に対してさきを敬ふ詞也」。ただし、ここの用例は唐突。口述で伝え教えること。『本居宣長随筆』二、景山先生不尽言曰「契沖師の説に、…古よ ...
40. 排蘆小船(近世随想集) 274ページ
日本古典文学全集
この説は堀景山のものであるが、ここでは自説のように述べており、距離が保たれていないことを注意すべきである。『本居宣長随筆』二、景山先生不尽言曰「さて和歌の歌の字 ...
41. 排蘆小船(近世随想集) 293ページ
日本古典文学全集
→二四五ページ注一。ここは、一方に儒学を意識しているため、あえて倭歌、和歌の語を用いている。『本居宣長随筆』二、景山先生不尽言曰「欲といへば悪き事のやうにのみ心 ...
42. 排蘆小船(近世随想集) 299ページ
日本古典文学全集
観れば、少陵(杜甫)の詩博く世故に渉れども、夫婦に出る者常に少くして、風人の義或は缺く」。『本居宣長随筆』二、景山先生不尽言曰「さて人情の事を論ぜば、即ち礼記に ...
43. 排蘆小船(近世随想集) 301ページ
日本古典文学全集
しるよりいで、物の心をしるは、世の有さまをしり、人の情に通ずるよりいづる也」。世間。世の中。『本居宣長随筆』二、景山先生不尽言曰「夫婦は人倫之始也ともの玉ひて、 ...
44. 排蘆小船(近世随想集) 302ページ
日本古典文学全集
自然と詞の美しきに随うて、意も深く 〔三五〕 〔三六〕 堀景山の所説で、宣長は多少批判的であった。『本居宣長随筆』二、景山先生不尽言曰「和歌は我朝の大道也。す ...
45. 排蘆小船(近世随想集) 314ページ
日本古典文学全集
詩にはいつはらぬ心のまことをいひづればこそ、いみじき物にして孔子も六経の一つには備へ給へれ」。『本居宣長随筆』二、景山先生不尽言曰「詩と云ものは恥かしきものにて ...
46. 排蘆小船(近世随想集) 318ページ
日本古典文学全集
この中に古今雅俗のけぢめはあれども、ことごとく歌にあらずといふことなし」。また佐佐木信綱著『増訂賀茂真淵と本居宣長』宣長伝補遺に紹介される堀景山、寛延二年七月稿 ...
47. 排蘆小船(近世随想集) 339ページ
日本古典文学全集
固なり。しかれども詩の用、もと作者の本意に在らずして、読む者の感ずるところいかんというに在り」。『本居宣長随筆』二、景山先生不尽言曰「詩三百篇の内には、邪念より ...
48. 排蘆小船(近世随想集) 356ページ
日本古典文学全集
神代口訣に日無の義也といへり」。いったん衰えたことが、再び盛んになること。決して。さらさら。『本居宣長随筆』二、景山先生不尽言曰「その上公家ならでは歌はよまれぬ ...
49. 排蘆小船(近世随想集) 358ページ
日本古典文学全集
後半は「伝授」。事実でないことを、本当のように作り立てること。判断力がある。見分ける力がある。『本居宣長随筆』二、景山先生不尽言曰「古今伝授の事、世上に流布せる ...
50. 排蘆小船(近世随想集) 366ページ
日本古典文学全集
同五日掾大伴宿祢池主の守家持に答ふる詩一首、題詞「山柿の歌泉は此に比ぶれば蔑きが如し」など。『本居宣長随筆』三「此方の上代に、道と云詞はただ道路の意ばかりにして ...
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