奈良初期に編纂された天皇家の神話。上巻は神々の物語,中・下巻は初代とされる神武天皇から推古天皇に至る各代の系譜や,天皇,皇子らを中心とする物語である。
これまで《古事記》は史書とされてきたが,全巻ひっくるめて本質的には神話とみなした方がよい。編纂が最初に企てられたのは天武朝(673-686)である。壬申の乱を経過して聖化された王権の由来を語るためにつくられた天皇家の本縁譚,それが《古事記》である。その点,それは律令国家の正史たろうとした《日本書紀》とはやや異質であるといえる。《古事記》の編纂事情を語るのは序文だけである。それによると,天武天皇が稗田阿礼(ひえだのあれ)に資料となる〈帝紀・旧辞〉を誦習させたが,完成せず,三十数年後,元明天皇の詔をうけて太安麻呂(おおのやすまろ)がこれらを筆録し,712年(和銅5)正月に献上したとある。稗田阿礼は男性であったとする説もあるが,神の誕生を意味するアレという名や《古事記》の内容からして,巫女とみた方がよい。《古事記》には,巫女の霊能が生きていた神話時代への共感がうかがえる。〈誦習〉とは,記録されていた諸伝承を,いったん神話として誦することであったかと思われる。口誦文化である神話を外国文字たる漢字で書きとどめることには,二重の困難があった。苦心の末,安麻呂は漢字の音を用いる音仮名方式と,意味を用いる訓字方式の混用を考えたのである。歌謡を記すには前者を用い,散文を記すには後者を主としながら前者もまじえた変体漢文体を用いて,神話的伝誦形式をできるだけ生かそうとしている。なお,《古事記》の最古の写本は,南北朝時代に成った真福寺本である。
神話には,現存の自然や社会のかくある由来を神代にさかのぼって語るという類のものが少なくない。それは現在の社会秩序を正当化し,かつ永遠化しようとする働きをもつ。この神話の機能を利用すべく支配者は競って自家の始祖神話を創出した。たとえ人代の話でもそれが上のような働きをもつなら神話といえる。諸氏族中の一氏にすぎなかった天皇家が,古代日本の支配者となったとき,自己および諸氏族がもち伝えた神話や系譜伝承を,天皇家の立場から整理し直し,その地位を確認させるための神話としてまとめあげたものが,《古事記》なのである。その主題とするところは,大八洲国(おおやしまぐに)や天皇家の始祖の誕生の由来,またその始祖が地上界の支配者となり,さらに大和を中心とする国家を築き上げた由来などである。《古事記》はその主題を展開すべく相互に連関する物語構造をもつ。
まず上巻は,天地創成に始まり,伊邪那岐(いざなき)・伊邪那美(いざなみ)(伊弉諾尊・伊弉冉尊)2神による国生み神話,皇祖神にして日の神天照大神(あまてらすおおかみ)の誕生,日神の天の岩屋戸(あまのいわやど)がくれ,その弟須佐之男(すさのお)命(素戔嗚尊)の出雲での大蛇退治,スサノオの6世の孫大穴牟遅(おおなむち)(大己貴)の根の国訪問,オオナムチが大国主(おおくにぬし)神として再生し地上界の頭目として天孫に国譲りする国譲り神話,アマテラスの孫番能邇邇芸(ほのににぎ)命(瓊瓊杵尊)の天孫降臨神話,隼人(はやと)服属の由縁を語る海幸・山幸(うみさちやまさち)の話などからなる。中巻は,ニニギノミコトの4代目の孫神武天皇が大和に都を定め,続く各代が支配領域を広げ,英雄倭建(やまとたける)命(日本武尊)の活躍により東西の辺境の蛮族も平定されるという話などを収める。そして,15代天皇とされる応神が,母神功(じんぐう)皇后の胎内にありながら海の彼方の韓国(からくに)まで服属させ国家統一は成ったという話で終わる。
これらの物語には,構造を枠づける鋳型があった。即位儀礼大嘗(だいじよう)祭あるいはそれと一連の鎮魂祭,八十島(やそしま)祭などである。天の岩屋戸神話と天孫降臨神話が緊密に連関しているのも,鎮魂祭と大嘗祭という一連の儀礼がそれぞれに投射しているからである。即位儀礼は,成年式を君主誕生の儀礼として昇華させたものである。若者が儀礼的な死と復活の過程を経ておとなとして再誕する成年式をなぞって,新君主の誕生もまた死と再生のドラマとして演じられた。ニニギが子宮を模した真床覆衾(まどこおおうのふすま)にくるまれて降臨すること,神武が未開の熊野でほとんど死にかけたところをアマテラスの助けでよみがえること,応神が母の胎内にあったまま征韓することなど,あきらかに死と再生のモチーフをうかがうことができる。儀礼の投射がとりわけ顕著なのは,これらを主人公とする話である。自然のリズムと結びついている儀礼は無時間的であるから,新君主はつねに始源の初代君主として誕生した。即位儀礼を通じて生まれる歴代君主を説話的に典型化したのが,これらの物語の主人公にほかならない。ニニギは神代の,神武は人代の,そして応神は文明時代のそれぞれの初代君主であった。《日本書紀》と異なり,《古事記》に日付のないのも,このことと関連する。
下巻になると,天皇の代替りごとの反乱の話と,歌物語風の天皇の恋愛譚が主となり,儀礼を鋳型とした物語構造は痕跡的となる。さらに25代とされる武烈天皇以下は系譜的記事のみとなっている。大八洲国の支配者としての天皇家の由来は,応神まででほぼ尽くしえたからであろう。また武烈に次ぐ継体朝,《古事記》がそこで終わる推古朝(592-628)は,大陸文化の流入,官僚国家形成などの歴史における画期にあたっていた。そして,それは神話的精神が衰滅していく過程でもあった。《古事記》の叙述の変化はこのような歴史に照応する。また《古事記》には,歌謡を配した物語も多く,とくに中・下巻にそれが目だつ。歌謡が物語の文学的興趣を高めているといってよい。歌謡の多くは宮廷雅楽寮で伝承保存されてきたもので,天皇家の縁起譚をつくる際に物語にとりこまれた(記紀歌謡)。
《日本書紀》に比べて《古事記》は氏族系譜を重視している。《古事記》の神々や皇子たちには,多数の大小氏族が後裔として結びつけられている。古代氏族社会の基盤は,網目状に結ばれた血縁組織であり,支配・被支配の関係も擬制的血縁関係として表現された。皇室系譜を幹とし,そこから枝葉のごとく諸氏族が茂り出ている擬制的一大系譜は,天皇家が支配者になるに至った経緯を物語るもう一つの神話であったといえよう。
作品にはさまざまな読み方がありうる。《古事記》を一貫した主題をもつ神話として読むという志向は,比較的新しいものといってよい。こうした読み方は西欧の社会・文化人類学の方法の適用によって可能になったものである。従来《古事記》は,歴史学,民俗学,神話学等諸分野で研究されてきた。これらに共通するのは,《古事記》を諸説話に解体し,個々の話の原型・核となった歴史的事実や祭儀,外来の神話的モティーフなどを探るという方法である。しかしこれらは《古事記》を資料とした諸研究にはなりえても,必ずしも《古事記》のもつ神話の論理を読みとることにはならない。なお,数ある注釈書の中で,今なお筆頭にあげるべきは,本居宣長の《古事記伝》(1798完成)である。《古事記》を神典視した誤りはあるにせよ,恣意的観念的解釈はしりぞけ,文脈にそって一言一句の意味を究めようとした研究態度や方法は学ぶべきであり,彼の解釈には今なお傾聴すべきものが多い。
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