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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第54回 筒川
【つつかわ】
47

浦島伝説の地
京都府与謝郡伊根町
2011年08月05日

奥丹後半島北端の経ヶ岬(竹野郡丹後町)から東南の新井崎にいざき(与謝郡伊根町)にいたる海岸線のほぼ中央、本庄浜一帯を筒川浦、また筒川という。若狭湾をへだてて東北方向に越前岬を望む。伊根町西部山地に源を発する筒川が、南東に流れてから方向を北に転じ、本庄浜において若狭湾に注いでいる。
近世の地誌『丹哥府志』には「筒川の庄 東鷲崎より西経ヶ崎にいたる」と記され、筒川は当時、現伊根町一帯を指していたようである。字日出ひで(伊根町)を発し、宮津市の厚垣あつがき、伊根町字本坂ほんざか野村のむらを通り、いかり峠越えで丹後町久僧きゅうそうに至る道が古くから開けていた。

筒川はいわゆる浦島伝説の地である。古くは『丹後国風土記』逸文に「浦嶼子」の話としてみえ、

与謝の郡、日置ひおきの里。此の里に筒川の村あり。此の人夫たみ
日に下部首等が先祖の名を筒川の嶼子しまこと云ひき

とある。風土記の伝える浦島子の話は次の様なものである。
筒川の島子が海で五色の亀を釣り上げる。その亀は島子が船で寝ている間に美しい婦人となり、神女であることを明かして、島子を海中の「蓬山とこよのくに」に誘った。島子はこの亀姫と三年を過したが、望郷の念絶ち難く、姫にもらった玉匣たまくしげを土産に筒川に帰ったところ一人の知人にも会えず、三〇〇年の歳月が流れたことを知る。開けてはならぬといわれた玉匣を開くと、島子の若々しさは風雲にともなわれて天上に飛び去り、失われてしまった。
なお『日本書紀』『扶桑略記』にも類似の話が載る。

伊根町字本庄浜小字浦島に、式内社宇良うら神社が鎮座し、筒川大明神、また浦島大明神とも呼ばれる。伊根の漁師のなげ節に

本庄浦島 島じゃと言うたに
島じゃござんせぬ 田圃中

と歌われるとおり、浜からは遠ざかったところにある。
江戸時代の地誌『宮津府志』は祭神を浦島太郎・曽布谷そふたに次郎・伊満田いまだ三郎・島子・乙姫の五神と記し、曽布谷次郎・伊満田三郎は太郎の弟とする。太郎に子供が無かったので、夫婦で天に祈ったところ男子を授かり、島子と名づけた。この島子が舟で釣に出て亀を釣り、亀が美しい姫に化して島子を誘い、海神の宮に到ったと伝える。
宇良神社所蔵の縁起のなかに『続浦島子伝記』と『浦島子縁起』がある。『続浦島子伝記』は巻末に

永仁二季甲午八月廿四日於丹州筒川庄福田村宝蓮
寺如法道場依難背芳命不顧筆跡狼籍馳紫毫了

と記し、群書類従本『続浦島子伝記』の原本と思われる神仙思想の濃い説話である。近世の『丹哥府志』にのせる縁起も、同伝記をもとにしたもので、宇良神社近辺に現存あるいはかつて所在した鞨鼓かつこ橋・一本杉・皺榎木などに関わる伝承の加わったものである。
また『浦島子縁起』は筒川大明神の本地仏薬師如来の利生譚をおりこんだところに特色がある。
諸伝承は島子を中心に展開し、神社の祭神も浦島五社大明神として、島子を中心に一族を祀るという考えを伝えている。しかし今日では、浦島物語は、太郎が助けた亀に乗せられて竜宮城へ行くという明治四四年(一九一一)の尋常小学校唱歌の内容になってしまった。

風流小歌踊である「花の踊」と「太刀振」は、宇良神社を中心としてこの地域に広く伝承されてきた。宇良神社には、第二次世界大戦以前には本庄地区から浜・宇治・あげ長延ちょうえん蒲入かまにゅうが、また筒川地区から河来見こうくるみ朝妻あさづま地区から新井にいなどが集まって奉納したが、敗戦前後には本庄地区五集落だけとなり、近年はさらに減少した。
また筒川地区の菅野すがの、朝妻地区の津母つもなど、各集落の氏神を中心に奉納される「花の踊」も、かつては宇良神社へも奉納されたと伝えるものが多い。

中世には筒川の地は筒川保として史料に見え、「丹後国田数帳」には「筒川保 卅四町四段五十五歩 公方御料所」と記される。
また文明一四年(一四八二)八月四日付室町幕府奉行人連署奉書(『大日本史料』第八編之十四)によれば、「筒川庄」領家職を、由緒を以て二階堂政行に預け置き、従来どおり年貢の沙汰を致すべきことを命じている。
二階堂については、宇良神社の嘉吉二年(一四四二)の棟札に「地頭殿領家殿公文一円地頭殿二階堂行充」の名がみえ、また永正三年(一五〇六)同社棟札には地頭殿二階堂政行及び代官三富修理行時の名がみえる。
ちなみに『宣胤卿記』永正一四年九月六日条に

晴、ますかゝみ三冊上中下返遣宗観(三富)
此次遣一首猶子藤原行時三富修理亮
有丹後之便宜者、可下遣之由仰了、国数年大乱、
当年殊自越前若狭両国合力不(ママ)入国也、
行時在所筒川辺無為歟、無心元由仰遣了、

玉手箱あけてはくるゝ夜まても
うら嶋遠くおもひこそやれ

と記され、丹後における永正の争乱が筒川にまで及んでいないかと、心配している。

 

(K・T)


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初出:『月刊百科』1980年1月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである